昨日(14日)の参議院内閣委員会で採択された「こども家庭庁設置関連法案」が、今日の参院本会議で賛成多数で可決された。
この「こども家庭庁」とは、約30年前に国連で採択された「子どもの権利条約」を下敷きにした制度で、ようやく日本でも本格的に「子どもにも大人同様の権利がある」ことが具体的な形を取ったことになる。
内閣府に置かれるので首相の直属機関となるのだが、厚生労働省と内閣府から寄せ集めた官僚約300人体制の機関になるそうだ。
設置される場所は両省府間の連絡の付きやすい霞が関に置かれるようだが、せっかく真新しい省庁が生まれたのだから東京一極集中を緩和すべく地方に置けなかったものか。
東京を大きく離れることに抵抗があるのなら東京の西部、たとえば八王子とか町田などなら交通至便であり、新官僚が通勤に困らないで済む。それでなくてもコロナ禍によってリモートワークが普遍的になったのだから、業務に差し支えることはあるまい。
とにかく首都直下型地震あるいは相模湾・東南海・南海トラフ地震がこの30年の内にほぼ100パーセント発生することが確実であると、地震予知連など政府諮問機関が「太鼓判」を押しているわけだから、その忠告には素直に従うべきだ。
本当は首都分散という大局に立った施策が必要なのだが、そこまで大局に立ちすぎると「雲をつかむような話」「予算をどうする」と言われるのがオチだが、阪神淡路大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)という巨大地震が、地震のタイムスケールから見ればまさに「立て続けに起きて来た」のだ。決して雲をつかむような話ではない。
予算についていえば、この2年間の新型コロナ対策に使った20兆円とも30兆円とも言われる金額くらいあれば可能だろう。しかも新型コロナ対策費は形として全く残らない医療費として消えてしまう金である。
それに比べれば、首都移転費用は結果として新都市建設という形として残る使い道であり、投資的経費に他ならない。新しい都市には新規需要が多く生まれるし、何より東京が大震災に襲われたことを考えた時、多くの人命が救われるわけである。2重の意味で後世に残る使い道だろう。
さて、本題の「こども家庭庁」であるが、最初は「子ども庁」だったのが、最終的に「こども家庭庁」になったのは大いに結構。子どもと家庭は切り離せないからである。
「子どもの権利」というと目くじらを立てる人がいるかもしれない。子どもは親の庇護監督の下で成長するのだから、子どもの権利ばかり優先してはいけないーーと考える大人の側の通念に傾いているとそのように思いがちである。
「子どもの権利」だけでは舌足らずなのだ。もう少し敷衍して言うと「子どもが生きていくために必要なアイテムが満たされる権利」だろう。アイテムとは最低限の衣食住と教育である。
最低限の衣食住とは「肌着類」「おむつ類」「お乳」「離乳食」であり、最低限の教育とは「言語(ことば)」とそれによる「意思の疎通」である。
この最低限の時代には特に母親の関与が重要だ。父親がいくら乳を与えても、あやしながら言葉をかけても、それは母親の二番煎じに過ぎない。労多くして実りの少ないやり方である。「父親も育児休暇をとれ」と法律を盾に言われても誰も取ろうとはしないのはそのためなのだ。実情はそういうことなのだ。
生みの母親が寄り添ってこその幼児期なのだ。これは子育て上の真理と言ってよい。
このように断言するのは、私と他の3人の兄弟(姉・兄・弟)の育った環境が、全くそういうのではなかったからである。
東京の核家族であった私の一家は両親が教員であったのだが、70年前の当時、教員世界は男女平等と言われていた(具体的に言うと賃金面での平等)。その平等性を担保するのが、男女同一労働であり、男女を問わずどの教員も保健の先生以外は学級を担任した。
そうなると困るのがお産である。お産の直前の2週間と直後の4週間の都合6週間が「産休(有給)」であり、6週間を過ぎても復帰しなければ、よほどの便法でもない限りは教員を辞めざるを得ない。
我家では長女の姉の場合、たまたま母の実家に1歳上の従姉が生まれていたため、預かってもらって教員稼業に戻ったのだが、兄から始まる3兄弟の時は「お手伝いさん」という名で呼んでいた住み込みの家政婦を雇って凌いでいた。
当然、どの兄弟も生れ落ちて4週間前後には母の寄り添いを失うのである。言うならば4週間後に、兄弟にとっては父親が二人になるのだ。
教員は土曜日が半ドンだし、長い夏休みがあるじゃないか――と言われそうだが、子どもにとっては長い夏休みの前後の期間の方がはるかに長く、夏休みで補えるものではない。
最近こういう格言をこしらえてみた。
<子ども泣かすにゃ、ゲンコは要らぬ、母ちゃん三日も居なきゃいい>
子どもは母親が一日傍にいないだけで心がざわつき、二日姿が見えなければ半べそで探し回り、三日目ともなれば立ち尽くして泣きじゃくるだろう。
たった3日母親がそばにいなくなっただけでこの有様である。
我家の場合、毎日必ず午後5時頃には母親は帰宅するから、半べそになったり、泣きじゃくったりはしなかったが、心のざわつきは始終あったように思う。要するに満たされぬ思いは年がら年中あったと言える。
自分という存在の確かさは、親、とくに母親との密接な寄り添い関係によって強固なものになるのだが、我が家の兄弟はその点恵まれなかった。自尊感情が十分に育たなかったと言い換えられるだろう。良い意味ではない方の「三つ子の魂百まで」なのだ。
今ごろグズグズ言っても詮方ないが、両親がいなかったら生まれて来なかったことは間違いない。生まれてきたことに自分という存在(魂)の関与が無かったとは言い切れないと思う。(※子どもは親を選んで生まれるともいう)。
しかし育て方において両親の囚われ(共稼ぎ=男女平等賃金という稼ぎ方)による「養育不全」は、我々4兄弟のあずかり知らぬことで、決して容認できるものではなかった。今日風に言うならば「ネグレクト」であり、1か月ほど前の新聞紙上で、昨年の子どもへの虐待事例が約3万件と増加してきたとあり、ネグレクトによる虐待は約25パーセントを占めているとあった。
ネグレクトは暴力に次いで多くなっており、一見しただけではそれ(虐待)とは見えないのでかえって扱いにくいかもしれない。
今度設置される「子ども家庭庁」がネグレクトにどう対応するか、自分としては興味を持って見守りたいし、期待も大きい。
この「こども家庭庁」とは、約30年前に国連で採択された「子どもの権利条約」を下敷きにした制度で、ようやく日本でも本格的に「子どもにも大人同様の権利がある」ことが具体的な形を取ったことになる。
内閣府に置かれるので首相の直属機関となるのだが、厚生労働省と内閣府から寄せ集めた官僚約300人体制の機関になるそうだ。
設置される場所は両省府間の連絡の付きやすい霞が関に置かれるようだが、せっかく真新しい省庁が生まれたのだから東京一極集中を緩和すべく地方に置けなかったものか。
東京を大きく離れることに抵抗があるのなら東京の西部、たとえば八王子とか町田などなら交通至便であり、新官僚が通勤に困らないで済む。それでなくてもコロナ禍によってリモートワークが普遍的になったのだから、業務に差し支えることはあるまい。
とにかく首都直下型地震あるいは相模湾・東南海・南海トラフ地震がこの30年の内にほぼ100パーセント発生することが確実であると、地震予知連など政府諮問機関が「太鼓判」を押しているわけだから、その忠告には素直に従うべきだ。
本当は首都分散という大局に立った施策が必要なのだが、そこまで大局に立ちすぎると「雲をつかむような話」「予算をどうする」と言われるのがオチだが、阪神淡路大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)という巨大地震が、地震のタイムスケールから見ればまさに「立て続けに起きて来た」のだ。決して雲をつかむような話ではない。
予算についていえば、この2年間の新型コロナ対策に使った20兆円とも30兆円とも言われる金額くらいあれば可能だろう。しかも新型コロナ対策費は形として全く残らない医療費として消えてしまう金である。
それに比べれば、首都移転費用は結果として新都市建設という形として残る使い道であり、投資的経費に他ならない。新しい都市には新規需要が多く生まれるし、何より東京が大震災に襲われたことを考えた時、多くの人命が救われるわけである。2重の意味で後世に残る使い道だろう。
さて、本題の「こども家庭庁」であるが、最初は「子ども庁」だったのが、最終的に「こども家庭庁」になったのは大いに結構。子どもと家庭は切り離せないからである。
「子どもの権利」というと目くじらを立てる人がいるかもしれない。子どもは親の庇護監督の下で成長するのだから、子どもの権利ばかり優先してはいけないーーと考える大人の側の通念に傾いているとそのように思いがちである。
「子どもの権利」だけでは舌足らずなのだ。もう少し敷衍して言うと「子どもが生きていくために必要なアイテムが満たされる権利」だろう。アイテムとは最低限の衣食住と教育である。
最低限の衣食住とは「肌着類」「おむつ類」「お乳」「離乳食」であり、最低限の教育とは「言語(ことば)」とそれによる「意思の疎通」である。
この最低限の時代には特に母親の関与が重要だ。父親がいくら乳を与えても、あやしながら言葉をかけても、それは母親の二番煎じに過ぎない。労多くして実りの少ないやり方である。「父親も育児休暇をとれ」と法律を盾に言われても誰も取ろうとはしないのはそのためなのだ。実情はそういうことなのだ。
生みの母親が寄り添ってこその幼児期なのだ。これは子育て上の真理と言ってよい。
このように断言するのは、私と他の3人の兄弟(姉・兄・弟)の育った環境が、全くそういうのではなかったからである。
東京の核家族であった私の一家は両親が教員であったのだが、70年前の当時、教員世界は男女平等と言われていた(具体的に言うと賃金面での平等)。その平等性を担保するのが、男女同一労働であり、男女を問わずどの教員も保健の先生以外は学級を担任した。
そうなると困るのがお産である。お産の直前の2週間と直後の4週間の都合6週間が「産休(有給)」であり、6週間を過ぎても復帰しなければ、よほどの便法でもない限りは教員を辞めざるを得ない。
我家では長女の姉の場合、たまたま母の実家に1歳上の従姉が生まれていたため、預かってもらって教員稼業に戻ったのだが、兄から始まる3兄弟の時は「お手伝いさん」という名で呼んでいた住み込みの家政婦を雇って凌いでいた。
当然、どの兄弟も生れ落ちて4週間前後には母の寄り添いを失うのである。言うならば4週間後に、兄弟にとっては父親が二人になるのだ。
教員は土曜日が半ドンだし、長い夏休みがあるじゃないか――と言われそうだが、子どもにとっては長い夏休みの前後の期間の方がはるかに長く、夏休みで補えるものではない。
最近こういう格言をこしらえてみた。
<子ども泣かすにゃ、ゲンコは要らぬ、母ちゃん三日も居なきゃいい>
子どもは母親が一日傍にいないだけで心がざわつき、二日姿が見えなければ半べそで探し回り、三日目ともなれば立ち尽くして泣きじゃくるだろう。
たった3日母親がそばにいなくなっただけでこの有様である。
我家の場合、毎日必ず午後5時頃には母親は帰宅するから、半べそになったり、泣きじゃくったりはしなかったが、心のざわつきは始終あったように思う。要するに満たされぬ思いは年がら年中あったと言える。
自分という存在の確かさは、親、とくに母親との密接な寄り添い関係によって強固なものになるのだが、我が家の兄弟はその点恵まれなかった。自尊感情が十分に育たなかったと言い換えられるだろう。良い意味ではない方の「三つ子の魂百まで」なのだ。
今ごろグズグズ言っても詮方ないが、両親がいなかったら生まれて来なかったことは間違いない。生まれてきたことに自分という存在(魂)の関与が無かったとは言い切れないと思う。(※子どもは親を選んで生まれるともいう)。
しかし育て方において両親の囚われ(共稼ぎ=男女平等賃金という稼ぎ方)による「養育不全」は、我々4兄弟のあずかり知らぬことで、決して容認できるものではなかった。今日風に言うならば「ネグレクト」であり、1か月ほど前の新聞紙上で、昨年の子どもへの虐待事例が約3万件と増加してきたとあり、ネグレクトによる虐待は約25パーセントを占めているとあった。
ネグレクトは暴力に次いで多くなっており、一見しただけではそれ(虐待)とは見えないのでかえって扱いにくいかもしれない。
今度設置される「子ども家庭庁」がネグレクトにどう対応するか、自分としては興味を持って見守りたいし、期待も大きい。