崇神天皇が北部九州の「五十(イソ)国」すなわち福岡県糸島市で王権を確立し、その後北部九州全域を皇子の垂仁天皇と共に掌中に収め、やがて半島情勢の逼迫により畿内大和に王権を移動させた――というのが私の「崇神天皇東遷説」の骨子である。
北部九州でその王権を継続できれば良いのだが、当時(3世紀後半=邪馬台国時代)の朝鮮半島南部では公孫氏の専横に対して魏の司馬懿(シバ・イ)大将軍が侵攻して公孫氏を打ち破っており、その勢いのまま半島から海を越えて攻めて来る可能性が考えられていた。
そうなると半島南部の利権もだが、九州北部の崇神王権の領有すら危うくなる。そう考えた崇神天皇ことミマキイリヒコイソ(五十)ニヱと、皇子のイクメイリヒコイソ(五十)サチは九州北部を離れ、列島の中心で最も安全な場所、つまり大和を目指した。
しかしそこにはすでに南九州由来の大和(橿原)王権が勢力を保持していた。この橿原王権を私は第1次大和王権と呼び、南九州(古日向)の邪馬台国時代の倭人伝には「投馬国」(王名はミミ、女王名はミミナリ)と記載された国が、2世紀の半ばに瀬戸内海を経由して畿内大和に入ったと考えている。
そして3世紀後半に北部九州からやって来た崇神天皇によって橿原王権は打倒された。その橿原王権最後の王こそ崇神天皇紀の10年に描かれた「武埴安彦・吾田媛」という南九州由来の名を持つ王と女王だったと考えられる。
彼等は謀反を起こしたと記されているが、実質的には北部九州からの侵略者崇神天皇への抵抗に他ならない。この二人が謀反を起こした様子を同年9月の条で崇神皇子の大彦が次のように述べていることで、武埴安彦と吾田媛が南九州由来であることが明確になる。
「吾(大彦)聞く、武埴安彦が妻・吾田媛、ひそかに来たりて、倭(やまと)の香山(かぐやま)の土を取りて領巾(ひれ)の頭に裏(つつ)みて祈り「これ、倭(やまと)国の物実(ものざね)」と申して即ち返りぬ。ここを以て事あらむと知りぬ。すみやかに図るにあらざれば、必ず遅れなむ。」
武埴安彦と吾田媛の内アタヒメが天の香久山に登って、そこの土を採取し「大和の物実」と言ったというのを知った大彦は、これは只事ではない謀反を起こそうとしているのだ――と悟ったというのである。
香久山の土を採取したことが謀反の表れであるというのはどういうことか?
実は神武天皇が南九州から畿内大和に入り、そこの豪族と戦う前にやはり香具山の土を取らしているのだ。神武天皇はその土は「天業(あまつひつぎ)の成否を占うもの」と考えていたとある。武埴安彦と吾田媛がこれと全く同じことを行ったということは
武埴安彦と吾田媛の王権がまさしく神武天皇と同じ南九州由来であることを表明している。
崇神天皇が1世紀余り先に大和に王権を築いた南九州由来の神武王権とは出自が違い、後発で大和に入って来たのはこの先住の武埴安彦と吾田媛王権を滅ぼしたことでまずは分かる。
もう一つ崇神王権が神武王権とは違う大きな理由がある。
それは祭祀である。
崇神天皇の5年から7年に掛けて描かれているのは、「国内に疫病が多く発生し、民の半ばが衰亡した」(5年)、「百姓が流離し、背く者も現れた」(6年)という非常事態であった。
このため崇神天皇は「アマテラス大神を皇女のトヨスキイリヒメに祭らせ、ヤマトの大国魂神を皇女のヌナキイリヒメに祭らせた」(6年)が、ヌナキイリヒメの方は「髪落ち、痩せて祭ること能わず」(同6年)という有様であった。
そこで神夢の知らせがヤマトトトヒモモソヒメにあり、大和の神「大物主」と「大国魂神」をそれぞれオオタタネコとイチシナガオイチに祭らせたところ、ようやく「疫病はじめて息(や)み、国内ようやく鎮まりぬ。五穀実りて、百姓にぎわいぬ」(同6年11月)となった。
以上のように崇神王権内部の皇女たちが大和の「大物主」や「大国魂」を祭れなかった様子がありありと書かれているのだが、もし崇神王権が大和自生の王権であるのならば、いったいなぜ大和自生の「大物主」と「大国魂」を祭れなかったのだろうか。
そう考えると崇神王権は大和自生ではなく、大和へは他所から入って来た可能性が極めて高いということが言えよう。
崇神天皇なんかどの道「造作」なのだから、そんな記録は無視しよう――という「造作説」をとるのならなおさら、以上のように皇女が大和自生の神々を祭れなかったなどという不名誉な記事など書く必要はないではないか。
それを書いた(書かざるを得なかった)理由はただ一つ、崇神王権は大和自生ではなく、よそからの遷移による王権であったからである。崇神も垂仁も皇女のトヨスキもヌナキも和名のすべてに「イリ」が入っていることもその考えを後押しする。
まとめると、崇神王権は北部九州「五十(イソ)」(糸島市)を中心に勢力を伸ばしたあと、半島情勢の逼迫から畿内大和へ東遷した勢力である。その理由は次の2点に集約される。
①大和の先住勢力である南九州由来のタケハニヤス・アタヒメ王権を滅亡させた。すなわち南九州由来の橿原王権に取って代わった。
②大和自生の神々「大物主」と「大国魂」を祭れなかった。これにより崇神王権が大和にとってはよそ者だったことがさらに了解される。
(追記)
「五十(イソ)国」すなわち糸島において崇神王権が勢力を伸長させ、北部九州で一大勢力となったのだが、その大勢力を魏志倭人伝では「大倭(タイワ)」(倭人連合)と書いている。この大倭王こと崇神王権が大和に東遷したがゆえに、畿内大和の「大和」が生まれたと考えている。「大和」は「大倭」の佳字化に他ならない。
糸島の崇神王権が「大倭王」となった経緯と、九州邪馬台国(八女説)との関係、及び「大倭」が東遷ののちに「大和」と佳字化され、しかも大和が「やまと」と読まれる理由については、項を改めて書くことにしたい。
北部九州でその王権を継続できれば良いのだが、当時(3世紀後半=邪馬台国時代)の朝鮮半島南部では公孫氏の専横に対して魏の司馬懿(シバ・イ)大将軍が侵攻して公孫氏を打ち破っており、その勢いのまま半島から海を越えて攻めて来る可能性が考えられていた。
そうなると半島南部の利権もだが、九州北部の崇神王権の領有すら危うくなる。そう考えた崇神天皇ことミマキイリヒコイソ(五十)ニヱと、皇子のイクメイリヒコイソ(五十)サチは九州北部を離れ、列島の中心で最も安全な場所、つまり大和を目指した。
しかしそこにはすでに南九州由来の大和(橿原)王権が勢力を保持していた。この橿原王権を私は第1次大和王権と呼び、南九州(古日向)の邪馬台国時代の倭人伝には「投馬国」(王名はミミ、女王名はミミナリ)と記載された国が、2世紀の半ばに瀬戸内海を経由して畿内大和に入ったと考えている。
そして3世紀後半に北部九州からやって来た崇神天皇によって橿原王権は打倒された。その橿原王権最後の王こそ崇神天皇紀の10年に描かれた「武埴安彦・吾田媛」という南九州由来の名を持つ王と女王だったと考えられる。
彼等は謀反を起こしたと記されているが、実質的には北部九州からの侵略者崇神天皇への抵抗に他ならない。この二人が謀反を起こした様子を同年9月の条で崇神皇子の大彦が次のように述べていることで、武埴安彦と吾田媛が南九州由来であることが明確になる。
「吾(大彦)聞く、武埴安彦が妻・吾田媛、ひそかに来たりて、倭(やまと)の香山(かぐやま)の土を取りて領巾(ひれ)の頭に裏(つつ)みて祈り「これ、倭(やまと)国の物実(ものざね)」と申して即ち返りぬ。ここを以て事あらむと知りぬ。すみやかに図るにあらざれば、必ず遅れなむ。」
武埴安彦と吾田媛の内アタヒメが天の香久山に登って、そこの土を採取し「大和の物実」と言ったというのを知った大彦は、これは只事ではない謀反を起こそうとしているのだ――と悟ったというのである。
香久山の土を採取したことが謀反の表れであるというのはどういうことか?
実は神武天皇が南九州から畿内大和に入り、そこの豪族と戦う前にやはり香具山の土を取らしているのだ。神武天皇はその土は「天業(あまつひつぎ)の成否を占うもの」と考えていたとある。武埴安彦と吾田媛がこれと全く同じことを行ったということは
武埴安彦と吾田媛の王権がまさしく神武天皇と同じ南九州由来であることを表明している。
崇神天皇が1世紀余り先に大和に王権を築いた南九州由来の神武王権とは出自が違い、後発で大和に入って来たのはこの先住の武埴安彦と吾田媛王権を滅ぼしたことでまずは分かる。
もう一つ崇神王権が神武王権とは違う大きな理由がある。
それは祭祀である。
崇神天皇の5年から7年に掛けて描かれているのは、「国内に疫病が多く発生し、民の半ばが衰亡した」(5年)、「百姓が流離し、背く者も現れた」(6年)という非常事態であった。
このため崇神天皇は「アマテラス大神を皇女のトヨスキイリヒメに祭らせ、ヤマトの大国魂神を皇女のヌナキイリヒメに祭らせた」(6年)が、ヌナキイリヒメの方は「髪落ち、痩せて祭ること能わず」(同6年)という有様であった。
そこで神夢の知らせがヤマトトトヒモモソヒメにあり、大和の神「大物主」と「大国魂神」をそれぞれオオタタネコとイチシナガオイチに祭らせたところ、ようやく「疫病はじめて息(や)み、国内ようやく鎮まりぬ。五穀実りて、百姓にぎわいぬ」(同6年11月)となった。
以上のように崇神王権内部の皇女たちが大和の「大物主」や「大国魂」を祭れなかった様子がありありと書かれているのだが、もし崇神王権が大和自生の王権であるのならば、いったいなぜ大和自生の「大物主」と「大国魂」を祭れなかったのだろうか。
そう考えると崇神王権は大和自生ではなく、大和へは他所から入って来た可能性が極めて高いということが言えよう。
崇神天皇なんかどの道「造作」なのだから、そんな記録は無視しよう――という「造作説」をとるのならなおさら、以上のように皇女が大和自生の神々を祭れなかったなどという不名誉な記事など書く必要はないではないか。
それを書いた(書かざるを得なかった)理由はただ一つ、崇神王権は大和自生ではなく、よそからの遷移による王権であったからである。崇神も垂仁も皇女のトヨスキもヌナキも和名のすべてに「イリ」が入っていることもその考えを後押しする。
まとめると、崇神王権は北部九州「五十(イソ)」(糸島市)を中心に勢力を伸ばしたあと、半島情勢の逼迫から畿内大和へ東遷した勢力である。その理由は次の2点に集約される。
①大和の先住勢力である南九州由来のタケハニヤス・アタヒメ王権を滅亡させた。すなわち南九州由来の橿原王権に取って代わった。
②大和自生の神々「大物主」と「大国魂」を祭れなかった。これにより崇神王権が大和にとってはよそ者だったことがさらに了解される。
(追記)
「五十(イソ)国」すなわち糸島において崇神王権が勢力を伸長させ、北部九州で一大勢力となったのだが、その大勢力を魏志倭人伝では「大倭(タイワ)」(倭人連合)と書いている。この大倭王こと崇神王権が大和に東遷したがゆえに、畿内大和の「大和」が生まれたと考えている。「大和」は「大倭」の佳字化に他ならない。
糸島の崇神王権が「大倭王」となった経緯と、九州邪馬台国(八女説)との関係、及び「大倭」が東遷ののちに「大和」と佳字化され、しかも大和が「やまと」と読まれる理由については、項を改めて書くことにしたい。