天皇皇后両陛下が即位後初の外遊先としてインドネシアを訪問されている。
17日の土曜日に日本を発ち、23日までの6泊7日というこれまでにないご夫婦そろっての外遊である。
17日は天皇単独の地下鉄視察、翌18日は排水機場の視察――と日本の技術協力によって完成した現場を案内されていた。
ハイライトは19日に訪れた。前日18日夜にあの大戦でインドネシア独立義勇兵として戦った日本兵の子孫の人たちとお会いになり、翌日(19日)に訪れることになっている「カリバタ英雄墓地」では深くお祈りを捧げる旨を告げられたそうである。
事実、19日に献花をされたカリバタ英雄墓地では揃って2分間もの長い黙とうを捧げられた。
この英雄墓地にはインドネシア独立に貢献した数百名のインドネシア人の中に交じって、28名の日本人が祭られているという。
日本兵のうち、インドネシアのオランダの植民地支配からの解放に約1000人が参加しており、その内の約500名が死亡または行方不明になっているそうだ。
その日本兵の協力もあり、インドネシアは1947年9月16日に独立を果たした。
インドネシアは感謝を忘れていなかった。
同じ19日には大統領官邸であるボゴール宮殿で大統領主催の午餐会が開かれたのだが、その席で陛下及び大統領の言葉はなかった。
これは異例の事態で、普通、日本から天皇が他国に招かれた場合、このような公式の宴会の席では必ず天皇の「お言葉」があり、アジア諸国を訪れた際には「先の大戦ではご迷惑をおかけしました」と前置きするのが常であった。
ところが今回公式の席での「お言葉」はなく、19日の午前中に訪問された「植物園」とそれに続く「記念植樹」のあとに陛下がシナリオなしの口頭(即興)で挨拶をされたのだ。若者の交流により相互理解を深めたい――という趣旨の「お言葉」であった。
ジョコ大統領はハプニングが好きだそうで、植物園に向かう電動カートを自分で運転して両陛下を案内したが、これも異例であった。
ジョコ大統領としては、戦後生まれ(陛下は1960年、ジョコ大統領は1961年生まれ)で自分とは1学年しか違わない陛下に対して、「先の大戦ではご迷惑を・・・」などという挨拶は受け入れられなかったのだろう。
それどころか日本軍がインドネシアに上陸しなかったらオランダからの独立はなかったと思っているのだ。
実は1955年の4月に開催されたインドネシアの保養地バンドンで開かれた「アジア・アフリカ会議」が端的にそのことを表明していた。
この会議の趣旨は、第2次世界大戦前までアジア・アフリカの多くの国々が欧米の植民地であり、大戦後に独立を果たしたうち、インドネシア・インド・エジプト・中華人民共和国からスカルノ・ネルー・ナセル・周恩来という各国のそうそうたる指導者が集まり、一種の集団的自衛権(もう2度と欧米の植民地にはならない)を宣言することだった。
日本も招かれたのだが、日本からは外務省の審議官クラスが参加したのみであった。
情けないことだが、アメリカと安保を結んでいる手前、日本が戦前は植民地支配打破に向けた活動をしていたという「国際上の信義」はアメリカにとって受け入れられなかったがゆえに、それを忖度した外務省が日本からの指導者(首相)を送ることをためらったのだ。
今回、ジョコ大統領が陛下をインドネシア独立のために戦った日本兵を祭る「カリバタ英雄墓地」に真っ先に案内したのは、そのことへの反論だったと思われる。
「日本は我々の植民地支配からの独立を助けてくれたじゃないですか! 何でもかんでも謝るのは止めていただきたい。」
ジョコ大統領はこう言いたかったに違いない。ジョコ大統領のこの大きな配慮には感謝するほかない。
17日の土曜日に日本を発ち、23日までの6泊7日というこれまでにないご夫婦そろっての外遊である。
17日は天皇単独の地下鉄視察、翌18日は排水機場の視察――と日本の技術協力によって完成した現場を案内されていた。
ハイライトは19日に訪れた。前日18日夜にあの大戦でインドネシア独立義勇兵として戦った日本兵の子孫の人たちとお会いになり、翌日(19日)に訪れることになっている「カリバタ英雄墓地」では深くお祈りを捧げる旨を告げられたそうである。
事実、19日に献花をされたカリバタ英雄墓地では揃って2分間もの長い黙とうを捧げられた。
この英雄墓地にはインドネシア独立に貢献した数百名のインドネシア人の中に交じって、28名の日本人が祭られているという。
日本兵のうち、インドネシアのオランダの植民地支配からの解放に約1000人が参加しており、その内の約500名が死亡または行方不明になっているそうだ。
その日本兵の協力もあり、インドネシアは1947年9月16日に独立を果たした。
インドネシアは感謝を忘れていなかった。
同じ19日には大統領官邸であるボゴール宮殿で大統領主催の午餐会が開かれたのだが、その席で陛下及び大統領の言葉はなかった。
これは異例の事態で、普通、日本から天皇が他国に招かれた場合、このような公式の宴会の席では必ず天皇の「お言葉」があり、アジア諸国を訪れた際には「先の大戦ではご迷惑をおかけしました」と前置きするのが常であった。
ところが今回公式の席での「お言葉」はなく、19日の午前中に訪問された「植物園」とそれに続く「記念植樹」のあとに陛下がシナリオなしの口頭(即興)で挨拶をされたのだ。若者の交流により相互理解を深めたい――という趣旨の「お言葉」であった。
ジョコ大統領はハプニングが好きだそうで、植物園に向かう電動カートを自分で運転して両陛下を案内したが、これも異例であった。
ジョコ大統領としては、戦後生まれ(陛下は1960年、ジョコ大統領は1961年生まれ)で自分とは1学年しか違わない陛下に対して、「先の大戦ではご迷惑を・・・」などという挨拶は受け入れられなかったのだろう。
それどころか日本軍がインドネシアに上陸しなかったらオランダからの独立はなかったと思っているのだ。
実は1955年の4月に開催されたインドネシアの保養地バンドンで開かれた「アジア・アフリカ会議」が端的にそのことを表明していた。
この会議の趣旨は、第2次世界大戦前までアジア・アフリカの多くの国々が欧米の植民地であり、大戦後に独立を果たしたうち、インドネシア・インド・エジプト・中華人民共和国からスカルノ・ネルー・ナセル・周恩来という各国のそうそうたる指導者が集まり、一種の集団的自衛権(もう2度と欧米の植民地にはならない)を宣言することだった。
日本も招かれたのだが、日本からは外務省の審議官クラスが参加したのみであった。
情けないことだが、アメリカと安保を結んでいる手前、日本が戦前は植民地支配打破に向けた活動をしていたという「国際上の信義」はアメリカにとって受け入れられなかったがゆえに、それを忖度した外務省が日本からの指導者(首相)を送ることをためらったのだ。
今回、ジョコ大統領が陛下をインドネシア独立のために戦った日本兵を祭る「カリバタ英雄墓地」に真っ先に案内したのは、そのことへの反論だったと思われる。
「日本は我々の植民地支配からの独立を助けてくれたじゃないですか! 何でもかんでも謝るのは止めていただきたい。」
ジョコ大統領はこう言いたかったに違いない。ジョコ大統領のこの大きな配慮には感謝するほかない。