岸田新首相が国会で施政方針演説を行った。
「はじめに」と「おわりに」の2項目を除き8項目について、これからの自民党政権内岸田執行部の所信を述べている。
岸田新政権の施政の中心となるのが「新しい資本主義」である。過度の「新自由主義」つまり「株価総額なるまやかしの儲け一辺倒、弱肉強食の市場原理主義」による貧富の格差に終止符を打とうとしているようだ。
全てを市場に任せるという市場原理主義は、新興の勝ち組には願ってもないやり方だが、負け組にとってはさらなる困窮を招く。
家庭の困窮で最も深刻な被害を被ったのは子どもである。その子どもの置かれた状況に対処しようというのが「子ども家庭庁」だ。
最初は「子ども庁」だけだったのが、こどもの居場所である「家庭」をネーミングに取り入れたのは素晴らしいと思う。
子どもの存在は「家」を抜きには語れないが、その「家」が子どもに果たす機能は、父母が思っている以上に子どもにとっては甚大な影響意をもたらす。
最初は「子ども庁」だったのが、そこに「家庭」が入った。誰の要求だったのかは知らないが、素晴らしいことだ。
家庭でではなく家族ではまずいのだ。というのは家族と家庭は似て非になる言葉だからである。
家族は今日風に言うならば「遺伝子でつながった一族」で、そのうち同じ屋根の下で暮らす人々を云う。だから離婚しても家族は家族だ。
これに対して家庭は同じ屋根の下で同じ釜の飯を食う仲間であり、必ずしも遺伝子上のつながりはなくても営めるシステムのことである。
家族は犬でも猫でも遺伝子をつなげればその子や孫は「家族」と言えるが、犬や猫では「家庭」は営めない。ニホンザルは大分の高崎山でも分かるが、母ザルは我が子に3年も4年もしっかりと寄り添っているくらい母子関係は強固である。けれども家庭は作らない(作れない)。
家庭を営めるのは哺乳動物数あれども人間だけだ。
この意味を深く考えないといけない。なぜ人間は家庭の中で子を育てるのか。答えは「教育」である。あるいは「教育期間が長い」からである。
ほとんどの哺乳類は離乳期が済むと「子離れ(母離れ)」となり、そこからは自分の食い扶持は自分で稼がなければならなくなる。親離れもいいとこだ。
しかし人間はそうは行かない。乳離れしたからと言って世間に放り出すわけにはいかない。特別に発達した頭脳に見合ったそれなりの技術や知識を学習によって補わなければならないのだ。
面倒と言えば面倒だが、近代以降は親(親の世代)が丸抱えで行っていたこの子どもへの技術や知識の転嫁を、国家が行うようになった。それが学校制度の始まりで、親はだいぶ楽になった。
だがそれは知識面のことで、日常生活の習慣や世間に出た時のエチケットを教えるのは親の世代の役目である。そのためには親が付き切りというわけではないが、少なくとも子供のそばにいて教え込まなければならない。
この「乳離れ以降の日常生活における習慣やエチケットの教育」が段々と蔑ろになって来たのが現代である。その大きな原因は「共稼ぎ」世帯の増加だろう。東京という最先端の都市部では「共稼ぎ率」は60%で、40%は専業主婦だという。
40%の専業主婦がいる家庭の子が必ずしも日常生活の習慣や世間でのエチケットに習熟し、実行しているわけではないし、60%の共稼ぎ世帯の子が日常的な習慣やエチケットを知らなかったり守らなかったりするわけではない。しかし「子は親の背中を見て育つ」と言うように、日常的に親の寄り添いを得ないでは子が学習する(真似する)機会がぐっと少なくなることは否めない。
「子ども家庭庁」がこういったことにまで踏み込んでくることは期待していないが、少なくとも「子どもにとって家庭は最重要なシステムである」ということを再認識する上で大きな一歩になると思いたい。
「はじめに」と「おわりに」の2項目を除き8項目について、これからの自民党政権内岸田執行部の所信を述べている。
岸田新政権の施政の中心となるのが「新しい資本主義」である。過度の「新自由主義」つまり「株価総額なるまやかしの儲け一辺倒、弱肉強食の市場原理主義」による貧富の格差に終止符を打とうとしているようだ。
全てを市場に任せるという市場原理主義は、新興の勝ち組には願ってもないやり方だが、負け組にとってはさらなる困窮を招く。
家庭の困窮で最も深刻な被害を被ったのは子どもである。その子どもの置かれた状況に対処しようというのが「子ども家庭庁」だ。
最初は「子ども庁」だけだったのが、こどもの居場所である「家庭」をネーミングに取り入れたのは素晴らしいと思う。
子どもの存在は「家」を抜きには語れないが、その「家」が子どもに果たす機能は、父母が思っている以上に子どもにとっては甚大な影響意をもたらす。
最初は「子ども庁」だったのが、そこに「家庭」が入った。誰の要求だったのかは知らないが、素晴らしいことだ。
家庭でではなく家族ではまずいのだ。というのは家族と家庭は似て非になる言葉だからである。
家族は今日風に言うならば「遺伝子でつながった一族」で、そのうち同じ屋根の下で暮らす人々を云う。だから離婚しても家族は家族だ。
これに対して家庭は同じ屋根の下で同じ釜の飯を食う仲間であり、必ずしも遺伝子上のつながりはなくても営めるシステムのことである。
家族は犬でも猫でも遺伝子をつなげればその子や孫は「家族」と言えるが、犬や猫では「家庭」は営めない。ニホンザルは大分の高崎山でも分かるが、母ザルは我が子に3年も4年もしっかりと寄り添っているくらい母子関係は強固である。けれども家庭は作らない(作れない)。
家庭を営めるのは哺乳動物数あれども人間だけだ。
この意味を深く考えないといけない。なぜ人間は家庭の中で子を育てるのか。答えは「教育」である。あるいは「教育期間が長い」からである。
ほとんどの哺乳類は離乳期が済むと「子離れ(母離れ)」となり、そこからは自分の食い扶持は自分で稼がなければならなくなる。親離れもいいとこだ。
しかし人間はそうは行かない。乳離れしたからと言って世間に放り出すわけにはいかない。特別に発達した頭脳に見合ったそれなりの技術や知識を学習によって補わなければならないのだ。
面倒と言えば面倒だが、近代以降は親(親の世代)が丸抱えで行っていたこの子どもへの技術や知識の転嫁を、国家が行うようになった。それが学校制度の始まりで、親はだいぶ楽になった。
だがそれは知識面のことで、日常生活の習慣や世間に出た時のエチケットを教えるのは親の世代の役目である。そのためには親が付き切りというわけではないが、少なくとも子供のそばにいて教え込まなければならない。
この「乳離れ以降の日常生活における習慣やエチケットの教育」が段々と蔑ろになって来たのが現代である。その大きな原因は「共稼ぎ」世帯の増加だろう。東京という最先端の都市部では「共稼ぎ率」は60%で、40%は専業主婦だという。
40%の専業主婦がいる家庭の子が必ずしも日常生活の習慣や世間でのエチケットに習熟し、実行しているわけではないし、60%の共稼ぎ世帯の子が日常的な習慣やエチケットを知らなかったり守らなかったりするわけではない。しかし「子は親の背中を見て育つ」と言うように、日常的に親の寄り添いを得ないでは子が学習する(真似する)機会がぐっと少なくなることは否めない。
「子ども家庭庁」がこういったことにまで踏み込んでくることは期待していないが、少なくとも「子どもにとって家庭は最重要なシステムである」ということを再認識する上で大きな一歩になると思いたい。
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