今日は着付教室の〝着物でお出かけ〟の日でしたので、朝から準備で大変…おまけに電車に乗って長府まで行くという。それで、とても疲れてしまいました。なのでそれはまた明日にでも…今日は昨日の吟行会のことを書いておきましょう。
今回の吟行は、2月15日から「涅槃図」(ねはんず)が掛けられているというので、近くの宗鱗寺(そうりんじ)へ出かけました。
「涅槃会」というのが釈迦の入滅の日とされる2月15日(陰暦)にその遺徳追善のために行う法会のことで、初春の季語となっています。日本では平安時代以降、諸寺において広く行われ、中世には盛大な年中行事の一つであったそうな。釈迦はクシナガラにおいて沙羅双樹の間に北枕に横臥して入滅し、そのさまを描いたのが涅槃図で、涅槃会の本尊として礼拝されるんだそうです。
歳時記の説明にある通り〝入滅の釈迦は右脇を下に両足を上下に重ねた姿で表され、その周囲に弟子や在俗の人々、諸菩薩、国王・大臣、鳥獣や、天から馳せ参じた生母摩耶夫人など種々の者が嘆き悲しむ姿が表現される〟という画でした。私は以前何度か見ていましたが、今回初めての人も多く、隅から隅までしっかりとみんな眺めていました。
ここ「宗鱗寺」というのは、777年唐より来朝した為光和尚によって松江山普済寺が創建されたと伝えられています。その後1670年、長州藩永代家老で宇部領主だった福原広俊(15代)が菩提寺として再興した禅宗(臨済)の名刹です。庭園は、本堂の北側にあり、築山泉水庭で「龍心庭」(りゅうしんてい)と呼ばれ、県下一の古庭園です。池の浅瀬は干潟様、池中の8個の立石は夜泊石(よどまりいし)と称され、「東の毛越寺(平泉)と西の宗鱗寺」のみに現存する鎌倉(南北朝)時代の遺構をのこす貴重な書院庭園です。拝観料300円。
山門の横に阿波野青畝の「鶺鴒は夜泊石を教へけり」の句碑がありました。聞くところによると、青畝はこの宗鱗寺によく来ていたとか。きっとそれは、宇部市に青畝の「かつらぎ」や「ひいらぎ」の結社に所属していた人が多かったからなのでしょう。句碑は昭和63年(1988年)4月3日、建立。
その後、昼食までにはまだ時間がありましたので、近くにある護国神社へ足を延ばしました。ここは桜の名所として有名ですが、今はあちらこちらに梅が咲いていました。筆塚や人形塚などもあり、毎月第四土曜日には人形供養を行うということです。そのための人形がもうたくさん小屋に積みあげられていました。もう一つここは御手洗が〝水琴窟〟になっていて、みんな手を洗ってはその澄んだ音に耳を傾けていました。
この「宇部護国神社」の創建は、慶応二年(1866年)11月で、第一次長州征伐回避の為、禁門の変の責任をとらされ自刃された藩三家老の一人宇部領主福原越後翁を主祭神とし、禁門の変で越後翁に従って出兵され戦死された22柱の御霊が合祀されて「維新招魂社」と命名されました。そのため神社の紋には、宗鱗寺と同じく福原翁の「かたばみ」が用いられました。初めは、崩山の地名から「崩し招魂社」通称「御霊社」とも云われていました。このあたりは、「維新山」といわれ、山続きの西端には福原翁の墓所宗隣寺があり、中尾には維新館もあって明治維新とは縁の深い土地柄であります。銃弾に縁深く『願掛け弾』や『願い玉』が有名で、多くの人が願掛けや願玉を求めに来るところなんです。
11時過ぎ、ANAホテルへ移動して、お昼のバイキングを堪能。その後いつもの会場に戻り、吟行句3句と宿題5句の句会をして17時に終りました。大して歩き回ってはいないんですが、やっぱり疲れました。歳ですかね~。オオーコワッ!