今日は穏やかな一日でした。最高気温も14度と平年並みかしら…のんびりと、といっても午前中は俳句の投句〆切でウンウンと頭をひねっていました。夕方までには投函しないと…本当は15日が〆切なんですが、今日は日曜日ですので、まあ明日まではいいということなんです。でも、宇部はアリガタイですよ。
だって空港がありますので、その最終便に間に合えば今日中には東京に着いて明日の配達になるのですから。田舎の方では早くて3日、どうかすると4日も掛かるとかいうのに、私は〆切の前日18時までに投函すればすむなんて、横着になっていけません。
そういう余裕のないことをいつもしていますので、何かトラブったりすると、もうお手上げ!そのときは反省するのですが、すぐに元の木阿弥…懲りない性分なんですね。困ったもんです。今日も何とか夕方までに間に合って、その後お歳暮の買物に行きました。
さて、さて、昨日は今年最後のダブル句会。午後の部の兼題は「冬座敷」、夜の部は先日観に行きました「夜神楽」です。どちらも難しかったようです。特に「冬座敷」は、最近の家には座敷がなかったり、あったとしても客間としてではなく居間的なもの。
ところで、この「冬座敷」という季語に対しては「夏座敷」という季語があります。でも、「春座敷」や「秋座敷」という季語はありません。今までは気にもとめずに詠んでいましたが、考えてみるとなぜなんだろうと思いますね。
そもそも季語という語が使われるようになったのは近代以降なんですが、季節という認識は万葉集の時代からあったようで、それぞれの歌を四季の別に配列している巻もあるということです。
芭蕉や蕪村などの俳諧の時代には、2600の季語が集められていました。当然「冬座敷」も「夏座敷」も江戸時代から詠まれていた季語なんです。ですが、春や秋はありません。
〈何なりと薄鍋かけん冬座敷〉というのがありますが、蕪村の弟子で江戸中期の俳人・黒柳召波の句です。また、芭蕉には〈山も庭に動き入るるや夏座敷〉という句があります。召波の句は、〝何でもいいから薄手の鍋をかけてこの寒い座敷を暖かくしよう〟という意味、芭蕉の句は、〝山も動いて庭から入ってきそうですよ。この涼しげな夏座敷へ…〟と、夏座敷を褒めた句です。
このように、昔は冬の寒さや夏の暑さを少しでも快適に過ごすための工夫があれこれとされていたのです。冬は襖や障子、屏風などを立てたり火鉢や炬燵などで暖かくするし、夏は襖や障子を外して、葭戸や簾を吊ったりして風通しをよくするとか、風鈴などを提げたりと、みるからにその季節らしさが感じられるものだったのです。
しかし、春や秋は気候的には暑くも寒くもないという一番快適な季節ですので、座敷そのものへの感慨は湧かなかったから詠まれなかったということでしょうか。だとすれば、冷暖房の完備した現代、昔の風情が全くなくなった座敷を詠むというのはとても難しいということがお分かりでしょう。
この「冬座敷」という言葉から受けるのは、やはり客間のイメージ。日頃は余り使われないためにどこか整然として冷たい空気が張り詰めたような部屋、そんな感じを生かして詠む必要があるでしょうね。
今回の最高点句は〈日にあてし座布団三つ冬座敷〉でした。そこで採った人の評を聞いてみると、面白いことがありました。一方は〝お客さんが来るので日に当てた座布団で待っている〟と、片方は〝お客さんが帰った後使った座布団を干している〟のだと。
さて、みなさんならどちらだと思いますか?作者の答えは〝待っているところです〟と。そうですね。ここは〈日にあてし〉の「し」がポイント。これは過去の助動詞ですから、もう既に日に当たってフカフカになった座布団が見えますよね。次に〝どうして三つなの?〟と聞くと、〝だって3人でしたから〟と。〝じゃあ2人だったら…4人だったら…〟というと…ウウッ
そうなんです。数を使うときはよくよく考えて使いましょう。たまたまそうだったからということでは、説得力がありません。ここはいくつであってもいいはず。この句のメインは、日を当てた座布団で待っているという作者の思いやりの心なんですから。そこで〈日に当てし座布団並べ冬座敷〉として、待っているのがしっかりと読者に伝わるようにしました。
写真は、先頃伐った榎(エノキ)の切株。大きな木でしょう。カワイソウ!もう一つは家の裏にある楠(クスノキ)、これは枯れないように一枝残してもらったんですけど…、大丈夫かしら。最後の写真は10年も前に伐ったクロガネモチの切株です。もうこんなになって…