なんとしたこと!折角立春をもって志を新たにしたものの…あっと言う間に十日以上も空いてしまいました。ゴメンナサ~イ!
とにかく忙しかったんです。することがたくさん有って。しかし、それもやっと一段落しましたので、これからは少し真面目にと…さて、できるかしら?でも今は私にとってのブログの優先順位がとっても低くなってるんです。だから緊急性のあるものがでたりすると、ブログになかなか順番が回ってこないということに…申し訳ございません。
さていざ書くとなると…間が空きすぎると何を書いていいのか、頭にさっと浮んできませんね。ああ、どうしましょう。そうそう、いつも通る道筋に立正佼成会の宇部教会があるんです。そこにいつも掲げてある〝今月のことば〟のようなもの。確かこれは先月見たものなんですが、なるほどと思って、いつか書こうと心に残っている言葉があります。では今日はそれを…
その言葉は〝心田を耕す〟というものでした。
実は〝耕(たがやし)〟という語は、それだけで春の季語になるんですよ。歳時記を見ると〝作物、野菜の種を蒔く前や苗を植えつける前に田や畑の土を鋤き返す、柔らかくほぐす作業をたがえしという。元来「田返し」の意味であり、今は「たがやす」ともいう〟と解説されています。
耕や鳥さへ啼かぬ山かげに
これは与謝蕪村の句です。山里の昼過ぎの景でしょうか。山蔭になって日の差さぬ田畑で、農夫が一人、ただ黙々と耕している。今日はちょっと肌寒さを感じてか、それとも鳥たちも昼時でどこかに休んでいるのか、鳴き声ひとつしない。そんな大自然の中の閑寂な世界…まるで水墨画のような景ですよね。しかし、この営々とした地味な作業、「耕」から、やがてあらゆる芽が出てきて作物の立派な実りが得られるんですから、いわば農業の基本となる一番大事な仕事といってもいいでしょうか。
だとすれば、私たち俳人もよい句を詠むためには、己の「心の田」をいつもしっかりと「耕」しておかないと…いい実り(俳句)が得られるはずはありませんよね。
この言葉は、立正佼成会 会長・庭野日鑛氏の『心田を耕す』(佼成出版社・1998)という著書からのもの。〝生きる喜びと、自己の内に目を向け、心の田を耕し種を撒く〟と、書かれているそう。さらに、すべての物事はとどまることなく変化するという「無常」の教えをもとに、いのちの尊さ・有り難さを自覚する大切さ、苦に直面したときの心の持ち方など、仏さまの教えがやさしく説かれているとも。
私も、この〝心の田〟の耕しによって、人々の心の有り様次第では大きく世の中が変わっていくのではと思います。これはまた俳句に限らずあらゆる芸術系のものからスポーツ系などにおいても、やはり心を磨いてこそ見えてくるものがあるのではないでしょうか。今世の中で、いや世界中で活躍している人々は、己の〝心田〟を磨き上げたからこその素晴らしい結果でしょう。
ところで、私は立正佼成会のことは何も知りませんし、宗教的なことには疎いので偉そうなことは言えませんが、ただ次の…〝お釈迦さまが托鉢の途中、ある農耕バラモンの家の前に立つと、主のバラモンが「私は田を耕し、種をまいて食を得ている。あなたも田を耕し種をまいて、食を得たらどうか」と言います。すると、お釈迦さまは「私も耕し、種をまいて食を得ている」と答えられます。バラモンは、「だが、わしらはあなたが田を耕し、種をまいているのを見たことがない」と、さらに言いつのりますが、それに対してお釈迦さまは、「私は人の心を耕し、信という種をまいている」と答えられるのです〟という話を読んだ時なるほどと思ったんです。
私たちが生きる上で何をするにも一番大事なこと、それは自分を磨くことだと思っています。ということは、ここで言う〝心を耕す〟ことと同じなんですよね。そうすると、いつも柔らかな心で、まわりを受け入れることができますし、人の話にも素直に耳を傾けられるようになります。それで自然に人が集まって慕ってくれるようにもなるのです。
高齢になって人の話には聞く耳を持たず、自分の我だけを通す、いわゆる〝頑固者〟になってしまうのは、己の心を磨くことを止めてしまったからなのではないでしょうか。
昔から聞き上手こそが人間関係づくりの決め手といわれていますが、とりわけ年を取った人にとっては、心の柔らかさがあってこそ〝生き上手〟になれるというもの。そのためにも〝心田を耕す〟ことは重要ですね。
昨日は東京では春一番が吹いたそうですから、いよいよ春本番ですよ。さあ皆さん、〝心田を耕す〟いい季節になりました。お互いに頑張りましょうね。
写真は、やっと満開になった我が家の梅の木です。今年は何もかもが遅くなったように感じます。木々も気候の変化についていけず…弱ってるんでしょうか。花の付もいまいちですから、実がならないかも…
この言葉に惚れて候。
我れ根っからの百姓~でガス
◎ 鍬を打つ首筋伝う球の汗
むかし田起こし昨今杖や (縄)
歳は取ってっも居眠りすれば、コックリこと
舟をこぎだすで候~・・・。
縄文時代から人は生きるために〝耕〟してきたんですからね。だから縄文人さんも根っから鍬を持って耕す人なんでしょう。
でも今は鍬が持てずに杖を持っているのだと…でもそれは日々の精進を怠らないということでしょう。つまり〝心の田を耕している〟ことになるんですよね。
だからお互いに楽しく…これからも耕していきましょう。
なるほどなー
物は言いようだな
禅宗などは人を煙に巻くようなところがあるが
百姓や農業とは実際にやってみなければ分からないな
昔の百姓は鍬を持って耕し、今じゃ耕運機が
確かに田は鍬を入れて田を耕す
畑は耕すのが良いが、耕さないのが良いか作物にとって良いか
畑は耕さない説もあるとか、どこだったかな聞いた事があるがな―
真偽は分からない
百姓と言う言葉も今じゃ別称語であるとか
百姓とは百種類もの多くの作物を作るから尊敬に値するがな
あっと言う間に桜が散って、今は見事な〝葉桜〟の季節。〝耕し〟も済んで、そろそろ田植の季節になりますね。
以前10年余りこちらの棚田保存のために、棚田のオーナーをしていました。
種まきはしませんでしたが、田植から田草取り、稲刈りから稲架干し、それを脱穀して…と一連の農作業を体験しました。
でもそれはみんないいとこ取りで、本当の農家の大変さは分からないでしょうが…
でも万分の一ぐらいは味わえたかなとも思っています。
確かに〝百姓〟を蔑称と言った人が居ました。でも誰でしたか?忘れましたが、ある俳人さんが〝自分は百姓の子だということに誇りを持ってるから百姓の句を詠む〟と言われていました。
私も風の盆さんの意見に賛成ですよ。