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70年代末のイタリア・テロ時代の分水嶺となった2つの暗殺事件

2019-01-21 19:00:55 | 社会
Corriere della sera 20 gennaio 2019 | 22:20

Roma, «I papà uccisi e i terroristi Stagione chiusa, ora verità»

Rossa e Alessandrini, i figli delle vittime: con quei due delitti cambiò la lotta armata. Quarant’anni dopo uno dei killer dell’operaio è ancora latitante

極左テロ集団Prima Linea(前線)によって殺害された判事のAlessandriniの葬式参列者たち。1979年1月31日。

イタリアでまだ捜査が継続しているテロリスト逃走犯30人の1人、Lorenzo Capri(赤い旅団のメンバー)は1979年1月24日の未明にPCIとCGILに所属するGuido Rossa を殺害した。当時、Carpiは25歳の若者。逮捕歴はなく、現在まだ生存しているかどうか分からない。

Rossaの暗殺事件は赤い旅団の歴史の分水嶺的事件だった。今週水曜日にはマッタレッラ大統領も当時Rossaが働いていたジェノバの旧IIVAでの式典に参加する予定だ。赤い旅団はRossaを、工場内部の赤い旅団を容認し、守ってきた工場労働者の沈黙と仲間意識を破壊した裏切り者であり、ベルリングェエル(70年代旧共産党書記長)のスパイとして暗殺したのだった。そして同じ時期に検察官のEmilio Alessandriniも1979年1月29日にミラノでPrima Linea(前線:(俗)テロリスト集団)によって殺された。彼は左派の武装組織はもとより、テロ集団の陰謀やFontana広場の大虐殺を捜査を担当していたことで、テロ集団からすれば共和国に信頼と力を与えるという“罪”があると断罪されたのだった。5日間に起こったこの2つの暗殺事件はイタリアのテロリズムを象徴する展開、「改革主義者を潰せ」へと発展した。

ヴェールは剥がされた

「1月29日の事件を思い出すとき、いつも24日の事件のことも考える」と、事件当時8歳で現在は中道左派のペスカーラ市長のMarco Alessandriniは語る。さらに「RossaとEmilioの殺害は、誤りを犯すテロリストたちの馬鹿げた論理をはっきりと否定した。このときが、これまで左翼集団がそのときまで頼りにしてきたヴェールがはっきりと引き破られた瞬間だった。」と語る。敵対者に一撃を加え、大衆の同意を得ながら、新たな武装闘争の展開を示したいと考えていたテロリストたちにとって惨めな出来事だったのは、結局市民の民主戦線を強固にし、対話の相手を失い、進むべき羅針盤を失ってしまったと言うことだ。父の死について、Rossaの娘、Sabinaが語る。「あの日、79年の1月24日、私は16歳の高校生だった。父がFiat850の中で死んでいることに気づくこともなく、家から出かけた。」彼女は2006年から2013年までPd(民主党)の今回議員を務めた。彼女はあの事件にはまだ解明しなければならないことがあると主張する。一工員でしかない父は暴行は受けるにしても殺される必要はなかったはずだと。赤い旅団の一員、Vincenzo Guagliardoがはじめに足を数発打った後、Guagliardoのボス、Riccardo Duraが殺した。そして、Dura自身はそれから1年後にFrancchia通りのアジトにいたところを、警察との銃撃で死んだ。

解明されなければならない疑惑

「GuagliardoはRossaについては何も知らなかった。Duraの指示は個人的なもので、赤い旅団の決定ではなかった。私はMario Morettiと会おうと彼に言ったが彼は会おうとはしなかった。Morettiが何かを説明出来るはずだ。生きているかどうかは分からないが、Carpiについても、誰が彼を40年も逃走し続けることを助けたのか、どうやってかくも長い間行方をくらますことが出来ているのか、を。」と逮捕され、収監されたCesare Battistiは語る。
しかし、犠牲者の親族として、殺人者のひとりが正義の裁きを受けないでいることは何を意味するだろう。「私は復讐を願っているわけではない。が、Guagliardoが31年の刑期を終えて罪を償ったのに、終身刑の判決を受けながら1日もその罪を償っていない犯罪者がいることは許せない。真実無しの正義はない。私にとって真実はまだ明かされないままだ。だれがどうして私の父を殺害することに決定したのか?Fracchia通りの検事暗殺事件、そこで隠され失われた書類、その他のいろいろについて全く真実が明かされていない。」

Marco Alessandriniも一片の”混乱させるメモ”はBattisti逮捕のための政府の策だったと考えている。一方で、次のように語る。「父のEmilioの殺害について、未解明の疑問点はなにもない。父を殺したのは革命ごっこ好きの知性に欠けるグループだったのだろう。事件の背後にKGBがいたということもないだろうし、どんな陰謀でこんな大事件が起こったかなど誰が知るというのか。死のむなしさと暴力による失われた命に対する癒やしがたい怒りだけが残っている。毎朝送ってくれる学校の門で私は父に挨拶をした。テロによる大虐殺やモロ首相の事件ではまだまだ解明されるべき真実が残されている。いずれにせよ、Prima Linea(前線)の歴史は裁判所によって解明された。たとえそれが減刑を条件に得られた情報によるものであっても。(ただし、減刑により暗殺者の中には監獄に入ってもすぐに出所出来た者もいた。)しかし、それは正規の手続きでしかし特別な法律を作ることなく、テロリストとの戦いに勝利するための代償だったのだろう。

検事には警護が付いていなかった

Emilioに対するムッソリーニ行動党のネオファシストからの脅迫や、赤いテロリストのアジトで彼の写真が見つかったにも関わらず、彼には警護が付いていなかった。「明らかに状況を甘く見ていたと言わざるを得ない。」とMarcoは語る。Emilio殺害事件後、大統領官邸での最高会議が開催され、反テロ捜査を担当する検察幹部には警護を付けることが決まった。このとき、Sandro Pertini大統領の隣には副大統領のVittorio Bacheletがいたが、彼は1年後の1980年2月12日に赤い旅団によって殺された。そしてその年の3月には4日間で3人の判事が連続して殺害された。そしてこのときにも警護が付いていなかったのだ。

Guido Rossaでさえ警護サービスを受けていなかったのだ。彼は赤い旅団の仲間たちについて裁判所で証言した初めてのそして唯一の証言者だったにもかかわらず。彼が受けていた脅迫は彼が仕事場の仲間たちから守ってもらう程度では十分でなかったと言うことか。私にはこれは単なる認識の甘さとは思えない。この犠牲が、テロが単なる左翼同士の内部争いであると思わせるためだったのではないかという疑念を持っている。またそれとは別ないくつかの見方もある。一方でPCIと労働組合は事件を注視するとただ表明しているにとどまる。70年代末私たちのテロに対する認識を変えた事件の闇と残念な結果。古い事件だが、Battistiの証言にあるようにまだ解決していない事件でもあるのだ。Marco Alessandriniが語る。「正義の審判にもとづいて訴追されることはほとんどないだろう。今ではあの事件はひとつの終わった時代の出来事になったのだ。」

(原文)
https://roma.corriere.it/notizie/cronaca/19_gennaio_20/i-papa-uccisi-terrorististagione-chiusa-ora-verita-227ecb9e-1cf7-11e9-abf6-3879de3c5581.shtml

(参考映像)
https://video.repubblica.it/rubriche/quelli-che-eravamo/guido-rossa-l-operaio-che-da-solo-denuncio-le-brigate-rosse/324851/325469?ref=RHPPBT-BH-I0-C4-P17-S1.4-T1