拝啓、世界の路上から

ギター片手に世界を旅するミュージシャン&映画監督のブログ(現在の訪問国:104ヶ国)

2008年8月10日(タリン/エストニア)

2008-08-17 | 旅メモ&旅日記(欧州)

9:00~10:00 ラエコヤ広場近くのカフェで朝食。手作りパンとコーヒーで87EEK(約6EUR)

10:00~13:00 旧市街のラエコヤ広場、聖霊教会、ブラックヘッドのギルド、聖オレフ教会、塔の広場、アレクサンドル・ネフスキー寺院、トームペア城&展望台等を散策する。


お昼頃雨が降り出してきたので、昼食に。

ラエコヤ広場近くのレストラン「ヴァナエマ・ユーレス」で昼食。


・ケフィール(Kefir/ケフィアヨーグルトドリンク/甘くない飲むヨーグルト)20EEK
・豚肉の煮込み(Seapraad hapukapsag/肉の煮込み具合が最高!つけあわせの洋風わさびホースラディッシュをつけて食べると涙モノ。ベリーソースとからめてもウマイ。超お奨めの一品)180EEK
・カマ(Kama/ヨーグルトと雑穀とベリーをあえたデザート。しっかりと深みある穀物のテイストがかなり効いている)45EEK。


全体的な感想としては、素朴だけど素材をかなり生かしており、奥行きのある味わい。
昨日のレストランもよかったが、ここは更に素晴らしい。はっきりと「ウマイ」と言えるレベルだと思う。


先の2国の印象で「バルト三国の食は砂漠かな?」と勝手に思っていたが、少なくともエストニアのタリンの料理は日本人の口にあうと思う。(ウクライナで食べた時程、絶品!というインパクトはないものの、かなりレベルは高いと思う)


以上トータル24EEK(約17EUR)



レストランを出ると雨がかなり激しくなってきた。Viru Hotel前からタクシーを広い、歌の原(Lauluraeljak)へ。
タクシー代約80EEK(約5.7EUR)


この歌の原は、1988年9月11日に歌と踊りの祭典で約30万人のエストニア人(民族人口約3分の1)が独立への思いを歌にし、バルト三国の独立運動「歌いながらの革命」がスタートした場所。


武器を手にとらず、音楽で、歌で革命を実現する、、、そうこの3年後の1991年、彼達は「音楽」という平和的な手法で、旧ソ連から独立を実現した。

リトアニアでは血の日曜日事件等、悲しい出来事があったものの、徹底した非暴力非服従、そして「歌」という手法で彼達は現実的に独立を手にしたのだ。


日本に目をやると、バブルがはじけ、終身雇用制と年金制度は崩壊し、人々は人生の希望の光を見失いかけ、毎日の生活にも疲れ切っている。


政治が悪い、社会が悪い、大人たちが悪い、、、そういくら嘆いていても何も変わらない。
誰かをせめて、現実から目を背けていても、何も良くはならない。


89年のベルリンの壁崩壊に象徴されるような、旧東側の共産主義体制の崩壊という絶好の流れ、機が熟していたことはあるものの、バルト三国の人々は歌いながら、そしてエストニアの首都タリンからリトアニアの首都ヴィリニュスまで、1989年8月23日にバルトの道と呼ばれる約200万人の人々が参加して手をつなぎ、600キロ以上の道のりを「人間の鎖」を作って、彼達は旧ソ連に対して独立を主張。

武器を手にせず独立運動の様々なデモで国際社会に訴え、自由と平和を、平和的な方法で勝ち取った。


この歌の原のステージで2時間程、ギター片手に歌う。


自分達、日本人はどうなのか、ただ嘆いているだけで良いのか、自分達が老い行く先、子供達の時代に希望の光を再び灯す為に、できることはきっと何かあるはずではないのか?と、そんな自問自答を繰り返しながら、降りしきる雨の中、歌い続けた。


バルト三国の人々だって、きっと当時色々な葛藤はあったのだと思う。
結果論では色々と語ることができても、その真っ只中にいるときは答えの見えない暗い夜道を歩いているようなもの。

ただ自分達の未来に希望を灯したい一心で、自分達に何ができるのかを必死に考え、激しく議論し、できることを1つ1つ実行してきたのだと思う。


そしてその葛藤は平和を勝ち取った今もなお続き、この平和を守り続ける為に、彼達はインフレの生活苦を覚悟でEUに参加、ロシアとの決別を選択し、新しい時代に向かって歩き続けている。


約20年前、旧ソ連時代には、当たり前のことを当たり前に主張できなかった時代。
そんなことをしようものなら政治犯としてKGBに捕らえられ、命の危険すらあった時代。

しかし彼達は自分達の未来を信じ、それをやりとげた。



一方、自分達日本人はどうなのか。

未来の子供達に、未来の自分達自身に胸がはれる生き方を、「今」できているだろうか。

ただただ、そんな言葉がこの胸の中でリフレインする。





そして歌い終わること、いつしか雨は止み、空には少し晴れ間すら見え、雲と雲との隙間から、光の筋が何本も差し込んでいた。


我が愛する祖国日本の未来にも、希望の光が差し込むように、自分達が今何かを始めないといけないとそんなことを感じていた。


そう自分達の未来を作るのは、やはり自分達自身なのだ。



バルト三国の旅で、その現在と過去に触れる中、「自分にできること1つ1つを、またここから始めよう」とそんな勇気と元気をもらったそんな気がする。



16:15~16:25  出口に出るとちょうどバス(2階建てのロンドン風赤バス)が来たので、飛び乗ってタリン港へ。
赤バスは観光客向けなので少し値段が高い。50EEK。(約3.5EUR)


16:25~16:45 タリン港に着くと、ちょうど空港行きのバスが到着したところだった。2番のバスに乗り換え空港へ。20EEK。(約1.5EUR)


16:45 空港でチェックイン

TLL18:10/FRA19:40 LH3179


写真:歌の原のステージで歌い終わって

2008年8月9日(タリン/エストニア)

2008-08-17 | 旅メモ&旅日記(欧州)





FRA14:05/TLL17:25 LH3178
両替1EUR=14EEK

17:30-17:45 バス(2番)でタリン市街へ。
Alaikmaa下車。20EEK(約1.5EUR)

歩いて旧市街のホステル、オールドタウンアルールへ。
ドミトリー1泊160EEK(約11.5EUR)


旧市街の商店で水(ボナーカ1リットル)を買う。14EEK


19:00-21:00 ラエコヤ広場で路上LIVE。

かなり盛り上がる。
歌っていると皆、頻繁に声をかけてくる。

ビートルズはここでも大人気。Hey Judeを歌うと拍手喝采。
その他のNumberでも地元の女子学生やヤンキー兄ちゃん?達が曲にあわせて手拍子をしてくれた。

かなりお布施?も集まる。約80EEK+5.2EUR(計約1800円)


「歌いながらの革命」の地、エストニアの首都タリン。

この町も人々の生活に深く、深く音楽が根付いていることを肌でひしひしと感じる。

多様化する生活のページの切れ端に音楽があるのではなく、その生活の中心に、ベース(土台)に音楽がどっしりと構えているという感じ。

アイルランドの首都ダブリンの路上で歌った時のことを思い出す。


終わりがけに日本の大学院生の青年(アイバラ君)が声をかけてくれた。
偶然にも同じ宿のドミトリーで相部屋(といっても14人部屋だが)だと言う。

歌い終わって一緒に夕食をとることに。
しかし時間が遅かったこともあってか、ガイドブックに乗っている2件は今日はもう一杯と断られてしまった。
偶然通りかかったエストニアレストランに入る。


22:00~24:00 2人で豚の煮込み(Herekels pork/150EEK)、鶏肉のグリル(Town Maiden`s Pocket/145EEK)、トマト味のスープ(Selijankaセリヤンカ/ボルシチっぽくてコクがある/60EEK。オリジナルはロシア料理とのこと)、コーラそっくりのノンアルコールビール(Kaliカリ/25EEK)等を頼む。

なかなかウマイ。

他のバルト3国のラトヴィア、リトアニアの料理ははっきり言ってかなりNGだった(日本人の口にあわない料理だった)が、ここタリンの食事は良いようだ。

簡単に言えばロシア料理とドイツ料理の良いところをアレンジした感じ。
(他の二国は失礼ながらロシア料理とドイツ料理をイギリス料理風に、どうしてこうなっちゃったの?的なアレンジをした感じだった。汗)

24時頃宿に戻る。夜道を歩いてもそれ程危険を感じない程、治安は良好だ。
今週は平均睡眠時間4時間弱と、少し仕事が忙しかったこともあり、その疲れもあってか、宿に戻ってすぐドミトリーのベットに倒れこむように横になると、すぐ眠りについた。


※写真:タリン旧市街のランドマーク「塔の広場」