5:00起床。やっぱり朝起きて最初のゲップの味は最悪だったけれど、7時間以上ぐっすり眠れた。(笑)
5:15にホテルをチェックアウトしタクシーで空港へ。15LS(約21EUR)
RIX7:15/VNO8:05 TE709(リトアニア航空)
両替50EUR=170LT(1LT=約0.3EUR)
8:20 空港からバス2番に載り旧市街へ 1.4LT(約0.4EUR。キオスクで買うと1LT)グディルコス通りのルキショウ広場下車。歩いて800m位先の大聖堂へ。
9:00~12:00 大聖堂を見たあと、ゲディミナスの塔へエレベータ(2LT)で上り、塔の前で1時間半程歌う。
ゲディミナスの塔の入場料4LT。
この日は睡眠時間がたっぷりだったので、ようやく本調子という感じ。
大聖堂に戻り「Stebuklas」(奇跡)の敷石へ。
ここは旧ソ連からバルト三国が独立運動を展開したデモの1つ、1989年8月23日に「人間の鎖」(エストニアの首都タリンからリトアニアの首都ヴィリニュスまで、1989年8月23日にバルト三国の人口約半数にあたる約200万人の人々が参加して手をつなぎ、600キロ以上の道のりを人間の鎖を作って独立を訴えた)の基点となった場所だ。
この上で時計回りに3回まわると願いがかなうと言われているらしく、他の人たちもやっているので、自分も試しにとやってみることに。
12:30 聖アニナ教会へ。ここは16世紀にナポレオンがロシア遠征した際に立ち寄り、フランスに持ち帰りたいと言った教会だとか。
それ程大きな教会ではないが、みごとなゴシック建築の教会だ。
13:00~14:00 リトアニア料理のファミリーレストラン、チリ・カイマスへ。
ポテトパンケーキ(ブルヴィニュイ・ブリーナイ)とリトアニア水餃子(コウドゥーナイ)、コーラを頼む。
オーダーしてから1時間近く待たされた上、ゲロマズ。ガイドブックに載っているお店なのに1口食べてギブアップなお味。
1時間待って食事時間30秒。これで25LS。(7EUR強)
14:00~14:30 口直しに聖テレサ教会近くのカフェでアイスティを飲む。4.5LS。(約1.3EUR)
15:00~15:30 聖テレサ教会の夜明けの門へ。
ここは奇跡を起こすといわれる聖母のイコンがあり、その聖母に拝謁する。
15:00~15:30 中央駅から16番のトロリーバスに乗って、町の中心から約5kmはなれたテレビ塔へ。片道1.1LT(往復で2.2LT)
このテレビ塔は1991年の「血の日曜日」事件の舞台となった場所の1つ。
非暴力、非服従の人間の盾に旧ソ連軍の装甲車が突っ込み、非武装の市民14人が死亡、独立運動に関連する報道等を抑えるべく、TVタワーと報道センターを旧ソ連軍が占拠した事件だ。
その他にも国会議事堂等、数万人で抵抗する非暴力非武装の地元市民を、旧ソ連軍が取り囲み軍事展開を実施し多数の負傷者、死者を出した。
この様子は広く世界に報じられ、バルト三国は世界の世論を動かし、非暴力での独立運動で自由を勝ち取った。
ここテレビ塔近くの事件の舞台となった場所には、その際犠牲となった人々の追悼の十字架があり、その前で1時間程歌う。
犠牲となった人々の中には20代前半の女性もいた。
武器も手にせず何の武力抵抗もしないまま、ロシア軍に立ち向かい、自由への祈りと誇りを胸に死んでいった人々。
先に書いた89年の人間の鎖では人口の約半数がその運動に参加したという。
当時のバルト3国の人々はどのような気持ちでこの独立運動を戦ったのか、そんなことを思いはせながら、立ち並ぶ十字架の前で歌い続けた。
自分が歌っていると、地元の子供2人が寄ってきて自分の歌を聞いてくれた。
帰り際にその子達へ1枚ずつ歌った時に使ったピックをプレゼントする。
誇り高きバルト民族の明日を担う子供達に、この日使ったピックをどうしても受け取って欲しかったのだ。
全ての子供達の未来に、希望という名の光はあるべきだと思う。
しかしそれが非常に困難な国、困難な環境で暮らす人々は世界に数多くある。
自由な国日本。
その気になれば、ごく普通の市民が世界の殆どの場所へ簡単に行くことができ、自分の思いを声高に叫ぶことができる国日本。
そんな日本の子供達の未来は、希望に満ちているだろうか。
自分達は愛しい我が子の未来に希望の光を灯すべく、最善を尽くしていると言えるだろうか。
前の仕事の職場では、身近な人が何人もうつ病で仕事にこれなくなったり、仕事熱心な隣の部署の、まだ40歳前後の課長さんがある日突然死した。
これはフィクションや伝え聞きの話などではなく、ごく身近で実際に起きた事実だ。
バブル崩壊以降、日本は景気回復の為にアメリカ型の経営手法を取り入れ、コストカットが繰り返されてきた。
MBAは神から与えられた称号のごとく、コストダウンは神のお告げのごとく今なお日本のビジネス界では深く浸透している。
しかしそのマニュアル的なビジネスモデルの上で、実際に現場で求められるのは、極めて「日本的」な仕事と労働力である。
マニュアルとトレーニングによって作られた、笑顔と機械的な作業だけではこの日本ではやっていけない。
そしてそこで働く人々も、海の向こうの人々や文化をブラウン管や活字でしか知らない、話し合えば人間はきっとわかりあえるはずと信じ込んだ、平和ボケした島国の単一民族「日本人」である。
同じ人間ではあっても、育った環境や長年築いてきた歴史と価値観が違えば、「違う人間なのだ」とは夢にも思わない。
海外を長く旅したり、異国で何年か過ごすと、日本人の文化、価値観がいかに特異なもの(自分は良い意味で特筆すべきものが多いと信じている1人なのだが)で、日本の常識というものが、いかに特別なものか等知る由もない。
そんな「特別な日本人」に、どっかから持ってきたものをそのまま当てはめようとすること自体に本当は無理があると自分は思う。
第二次世界大戦後日本は、自動車やハイテク機器、食文化等に代表されるように、「良い意味でのアレンジ」で、異文化のものをオリジナル以上に上質にうまくローカライズして発展してきた国だ。
日本に適した新しい社会の仕組みは、元々のテイストは外来のものであっても、やはり日本独自の文化、価値観にあったオリジナリティ溢れる、世界のどこにもあるはずの無いものになるのが、むしろ自然なのだと自分は思う。
終身雇用制の崩壊、年金制度の崩壊、、、、、24時間いつでも何でも簡単に買える程、生活はどんどんとより便利になる一方、自分達の住むこの日本は、便利になればなるほど、豊かになればなるほど、どんどんと「生きづらい国」、「人生に希望を見つけにくい国」になってしまっていないだろうか。
言葉の上ではこのうえない矛盾。
しかし実際に我が国で起きている現実ではないだろうか。
未来の日本に希望の光を灯し続ける為に、自分達は今、何を選択し、どこへ向かうのか、そしてその為に今何をすべきかを真剣に考えなくてはいけないと思う。
政治や社会といった「よくわからない曖昧なもの」に期待しても、そんなものは幻想だと思う。
このバルト三国に自由と平和をもたらしたのは、どこにでもいる普通の市民達。
武器1つもたず「非暴力非服従」の気高き理念の下、ただ強い意志と実行力でそれを勝ち取った。
そして目の前には、その実現の為に己の命すら惜しみなく差し出した、自分達と同じごく普通に暮らす町の人々の、追悼の十字架が並んでいる。
我が祖国日本に希望の光を灯せるのも、どこにでもいる普通の市民達、我々自身ではないのか。
ただ誰かのせいにして批判を繰り返し、投げやりな気持ちでふさぎこんでいても何も良くはならない。
ただ黙ってひたすら耐え続け、精神疾患や突然死する人生は、自分や愛する人々が望んだものなのだろうか。
きっと自分達にもできることが何かあるはずだと思う。
自分達と自分達の子供達の未来の為に。
ジョン・レノンのイマジンの歌詞ではないけれど、まずは自分達はどんな未来を作りたいのか、「想像」するところから始めてみるべきではないだろうか。
そして自分達で出した答えを持ち寄って、まずは身近な仲間の中でブラッシュアップし、自分達で出来ることからそれを1つずつ実践していくことではないだろうか。
このバルト三国で実際に行われた歌いながらの革命や、人間の鎖といったアイデアも、そうやって生まれてきたのではないのだろうか。
そんなことを思いながらうたったこの日の歌は、昨日と違って、帰りのバスの中でも、いつまでも芯の通った力強い余韻が心地よく響いていた。
18:00~18:10 中央駅からバスに乗ろうとするがちょうど出たばかりで次が一時間後だったので、タクシーで空港へ。25LT。(約7EUR)
VNO20:00/FRA21:05 LH3255
※写真:この日歌ったテレビ塔前で犠牲となった方々の追悼の十字架前