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「いじめ」の芋太郎流2つの定義打破から解決へ

2012-07-10 11:59:32 | 知恵庫先生の講座
いじめを考えるささやかな挑戦


「いじめ」、またもや社会の注目を掻き立てている。
問題視され始めてからも、歳月を重ねようとも、
一向に下火になる様子はない。
なぜだろうか。
自分の心の中に問いかけてみた。

以下、芋太郎のささやかな「いじめ考察」である。

まずは、いじめの定義づけ

1、[パワハラの変形である]
  「いじめ」を分類し、整理したことはないのだが
  (もし、データ分析をしている方がいたら教えて
   くださいね。)
  パワハラの変形と考える
  理由は、強いものが弱い者を見下すことから始ま
  るからです。
  弱いものが強いものを苛めた事例に遭遇しており
  ません。

2、[反復継続する行為が存在すること]
  単純な一過性での強弱対立は日頃から発生する。
  いわゆる喧嘩型です。
  「いじめ」のいじめたるゆえんは、その反復継続
  性にあると見る。
  

今回の滋賀県の事例は上記2つの要素を満たしている。
ついては、芋太郎式認定では「いじめ」が成立します



次に「いじめ」の心の襞(ひだ)を考えてみよう。

あくまでも、上記定義に沿います。
なぜ、人は弱いものを作り、見下し、搾取するのか。
この命題の前に、「弱い」との定義をしましょう。

「弱い」とは、力を得ていないことです。
それは、権力、金、名誉、地位、数などのパワーの源
泉と密接不可分です。
知識さえもこのパワーになりえる危惧があります。

こんな事例は、皆様の周囲に溢れていませんか。
仕事ができない。
ミスが多い。
不清潔である。(汚いとはかけないので。)
みすぼらしい。
愛嬌が悪い。
頭がとろい。
などの理由で、毛嫌いしておりませんか。
毛嫌いが人格否定に繋がっていませんか。
この毛嫌いが、パワーと継続性を有するときに
「いじめ」に変質する可能性があると考えます。

最初はからかいで始めるが、次第にエスカレートし、
数や力(権威、お金、地位、知識)などを頼りに、
継続的に見下し、搾取していませんか。
この場合の搾取とは、金品から人の名誉まで含みま
す。

実は、私たち一人ひとりが「いじめ」の加害者にな
る危険性があります。
同時に、「被害者」になる可能性もあります。
それゆえに、被害者に入りたくないばかりに、加害
者側に回ろうとする傾向が発生します。

今回の市教育委員会の対応は、事なかれ主義です。
しかし、その心理的なひだを見れば、次の事実に行
きあたるのではないでしょうか。

1、巻き込まれたくない。
2、被害者自身にも責任がある。(弱点を改めよう
 としなかった。)
3、自分自身が被害者になりたくない。
 加害者側から直接・間接問わず、影響力を受けた
 くない。
4、非を明らかにすることで、この問題をクローズ
 アップしたくない。(管理責任を負いたくない。)
 特に官僚の無謬性です。
5、「いじめ」を認めることで、自分自身の存在を
 危険にさらしたくない。

こんな心理が働いいたとは思いませんか。

加害者側の公開文章にも、その兆候の一端がありま
す。
被害者および被害者の両親を責める。
本末転倒の論理展開です。

上の、定義に全く当てはまりません。
被害者をいやしめても「いじめ」の定義から開放さ
れることはありません。
不法性・道義性・正当性は含まれないからです。

今回の事件は、その意味では典型的な「いじめ」で
しょうか。
そして、問題は、加害者を追及し、糾弾すること。
それ以上に、それがなぜ防止できなかったのか。
この2つの定義を防止する方法を実施しなったこと
を問題にすることが必要です。

罪は裁かれるべきです。

しかし、法治国家では裁くのは法律です。
今回の「いじめ」はまず、殺人罪で検証することが
道理です。その上で、殺人罪で検証できないことが
判明した時点で殺人幇助です。
芋太郎の個人的見解ですが、自殺は殺人罪です。
みずからを殺す殺人です。
罪を問う本人が不存在ゆえに、罪を本人には問わな
いとしたい。
法律的な見識を改める必要があります。
(異論は無論あると考えます。しかし、命は自分だ
けのものという考えに賛同したくありません。)

次に、周囲の生徒・先生や学校・教育委員会という
組織の対応です。
見てみぬふりをするのは同罪であることを認識する
ことが必要です。
一人でも反旗を翻していれば、また違う世界が開い
たことでしょう。
あなたの周囲の世界でももう一度、見直してくださ
い。
きっと「いじめ」に近い状態があります。

そのとき重要なことを申し上げます。
上記定義に沿い考えましょう。

「いじめ」がパワハラである。
「いじめ」が反復・継続性にある。

この2つを封じ込める必要が必要です。

力を過信してはいけませんが、力は必要です。
このように申し上げると、ある一部の団体から批判
されます。「暴力反対と」
しかし、暴力と力は違います。
ここではそのような初歩的な定義は省みません。

力の必要性をこの国は避けて通る傾向がある。
臭いものには蓋をしろ
羹に懲りて膾を吹く
でしょうか。
力は正義や勇気の裏づけは無論、「愛」という
要素も不可欠です。
被害者を守りたいという正義感
不当なパワーから加害者を救いたいという勇気
周囲の事なかれ主義を打破しようとする勇気
被害者を救いたいという愛
加害者を人の道へ戻したいという愛
これらが、欠けてしまっています。

現在の教職員にも、この3つの要素がかけています。
正確に言えば、3つの要素より上記のいじめを構成
する要素に負けていることでしょうか。

正義・勇気・愛<権威・権力・お金・知識・名誉・
         地位・数

という構図が成立します。
昔のように叱れる教師、それを支える組織や親が
不存在なのです。
応援団がいない教師は孤独ですね。

我々一人一人が応援団にならなければ、この問題は
解決しません。
勇気と愛溢れる教師を普段から見殺しにしない
こんな日常が「いじめ」防止に役立つと考えます。

後日、騒ぐことよりもさらに重要ではないでしょう
か。


ぜひ、この一文へのコメントをお持ちいたしており
ます。まじめなご意見をお願いします。
一緒に考えて、さらに考えを深めてゆきたい。

平成24年7月10日 川越芋太郎


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