川越芋太郎の世界(Bar”夢”)

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一言メッセージ・「美」の探訪ブログです。短編小説などもあります。

美の巨人たち:画家が目指した光の大地

2011-03-26 10:12:37 | 美の番組紹介
美の巨人たち:画家が目指した光の大地


ドラクロアの「アルジェの女たち」



本日のテーマはドラクロアであるが、
テーマは彼がアフリカを訪れたところ
から始まる。


実は、ドラクロアは、1798年、パリ近郊
のシャラントン(現在のサン=モーリス)
に生まれた。
父は外交官シャルル・ドラクロワだが、
ウィーン会議のフランス代表として
知られるタレーランが実の父親だ
という仮説があり、
かなりの根拠がある。


1822年『ダンテの小舟』でアントワーヌ
=ジャン・グロの強力な推薦もあり
サロン(官展)に入選した。
1824年のサロンには『キオス島の虐殺』
を出品する。
もっとも有名なのが、『民衆を導く自由
の女神』であろう。
すでに、アトリエ作家の枠から飛び出し
ジャーナリステックな画家でもあった。



そして、本日のテーマは、この時代を
飛び越えて、彼がモロッコを訪問した
ところから始まる。
1832年、フランス政府の外交使節に随行
する記録画家としてモロッコを訪問した。
34歳で北アフリカの地を踏む。


当時のモロッコはヨーロッパからの
玄関口として機能していたようだ。
西欧人から見た地中海沿岸の北アフリカ
は別世界であった。


北アフリカの大地
さんさんとふり注ぐ太陽
まばゆい光と異国情緒
現代のわれわれが知るモロッコ・アルジェ。
それは、ドラクロアの時代も同じである。


強烈な光
彼れは、「悪魔の太陽」と呼んで驚いた。
モロッコ・アルジェリアの旅は、
彼は心底からの感動を受ける。
それは、己の芸術への変化を誘発する。


6ヶ月で100点のスケッチを残し、
光と色彩の新境地を手に入れた彼。
モロッコ・アルジェの文化を感じ、
風景・風土全てに目を奪われれる。
楽園と情熱の旅であった。


彼は、イスラムの香りさえも、
光と色彩に残した。
人々の香り、空気感、情熱さえも。
鮮やかな原色は、従来の西欧画にはない
新境地を開拓した。


彼れの後輩である、ルノアール、
マティスなどに多大な影響を
与えたといわれる。


地理的にも、宗教的にも、暗い西欧
それに対し、イスラムの世界は、
まるでぎらぎらした太陽のようで
あったようだ。
かれの「悪魔の太陽と呼びたいほどの
強烈な光」は賞賛の言葉であろうか。


彼は、この光に見せられ、引き寄せら
れ、描き続けた。


この旅で生まれたのが「アルジェの
女たち」である。
画壇の異端児は、アトリエから飛び出し、
ついに異世界に到達し、
西欧絵画に新たなページを開いた。


記念すべき作品をぜひ、ご自分の目で
確かめてください。
現代日本人にはピンと来ない側面も
あるかもしれません。
強烈な光を知っていますからね。


しかし、暗い太陽しか知らない西欧から
考えれば、驚愕の光であっただろうと
思われます。


地理的要素が芸術に与える要素は
大きいものがあるのですね。


皆様もぜひ、ドラクロアの光の芸術を
ご覧下さい。
同名のピカソの作品もあり、
調べてみると結構楽しめます。

ドラクロワ 色彩の饗宴 (ART&WORDS)
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二玄社

美の巨人たち:平田郷陽<粧ひ>

2011-03-20 14:43:50 | 美の番組紹介
美の巨人たち:平田郷陽<粧ひ>



人形作家である平田郷陽の代表作
それが、本日の化粧をする女こと<粧ひ>
です。
今から80年前、昭和6年の作品です。


当時の芸術界では、「人形」の置かれた
位置づけは、伝統工芸であった。


ここに真っ向から挑戦したのが平田郷陽。
横浜の山下公園の側で、人形作家の家に
生まれた。
小学生から父に習い工房に出入り。
生きている人間
等身大の人形
写実主義を根底から教え込まれた。


その彼が、日本の芸術界に人形で挑んだ
のが彼の作品である。
25歳の彼が「青い目の人形」へ日本側
返礼として、第一等になる。
81㎝の「桜子」。


彼の作品はまさに人体を研究し尽くされ
ており、骨格から筋肉のつき方まで
体までも表現する彼の人形
(従来は体はハリボテである)

人間自体を表現する技術を平田は身に
つけていた。

彫刻でもなく、
絵画でもなく、
圧倒的表現力で人間の美を描く。
まるで、生きているように思える人形。


それは、外形だけではない。
心の中の女心さえも表現する。
迫真の姿
細部の凄み
手で植えられた髪
桜色のほほ
血が通う耳
切れ長の目は、鏡の中の自分を見、
唇からは吐息さえも
聞こえてきそうである。

生きているとしか思えない



人形作りは総合芸術であるという。
姿かたちは彫刻力
目口は画家の表現力
衣装はデザイン力
小道具は工芸家の力
全てを動員して、生まれた総合芸術
それが、人形であるという。


際立つ技術は、「命」を感じさせた。


百聞は一見にしかず。ぜひ、本物を見てみたい。


平成23年3月20日 川越芋太郎


骨董緑青〈19〉特集 人間国宝・平田郷陽―人形の世界
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マリア書房


骨董 緑青〈22〉人間国宝の人形作家たち―伝統と創造
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マリア書房



美の巨人たち:美南見十二侯

2011-03-06 13:18:44 | 美の番組紹介
美の巨人たち:美南見十二侯



鳥井清永
一般的には、写楽や歌麿ほど知られていない。
本日の作品は彼のもの。


江戸時代、北の吉原、南の品川と言われた。
遊戯の品川、
当時も今も江戸(東京)の南の玄関口。


清永は、この品川の遊女たちを季節を背景に
描き出そうとした。
3月から9月までの作品が現存する。
未完成の大作である。


特徴は、大判を2つあわせた大きなサイズ。
従来の作品よりもきめ細かく描き出すことが
可能となる。
同時に、ワイド画面は美人画だけでなく、
背景という新しい世界を持ち込んだ。


例えば、御殿山に繰り出した遊女達。
桜の花との戯れに、
遠くに浮かぶ品川沖の舟



背景だけでなく、実は美人画自体にも変化が
あるという。
清永の美女はなんと八頭身!
江戸の時代に八頭身の美女がいたとは思われ
ない。


番組では以下のように類推する。


人体図の影響
当時の科学的知識が人体の合理的なプロポー
ションを清永にもたらした。
八頭身の美人がは2つの結果をもたらした。


アーネスト・フェノロサの言から

ボッテチェリより調和が取れている
ギリシャ絵画より柔らかで流動的な最高の線
を出している。

それほど、外国人に人気を博した。
清永の作品が日本よりも海外でコレクトされ
る背景がここにある。


清永は従来の美人画の革命児である。


そのような清永に何が起きたのだろうか
9月で筆をおり、
未完成の作品となる。
描くことへの行き詰まりとは思えない。


実は、清永の師である鳥井清満の死が影響
したという。
後継者がなく、直系男子が継ぐ慣わしから、
清永⇒三代目清満の息子へバトンが渡される
まで、かれは養育係となる。
鳥井派を代表すると同時に、
養育係に徹した。


なんとも、武士道の精神ではないか。
主家のために、自らの筆を折る。
個人ではなく、鳥井派宗家としてその後を
生きたわけである。
なんともすがすがしい生き様である。


しかし、清永の精神と技術は、その後の
歌麿・写楽へ継承されたと考えたい。


日本の武士道精神ここにあり。
そのような背景を知り、鳥井清永作の
美南見十二侯を眺めてみよう。


平成23年3月6日 川越芋太郎


参考ホームページ

美の壺:昭和レトロの家

2011-03-06 12:20:21 | 美の番組紹介
「美の壺:昭和レトロの家」 NHK


2010年に放送された番組の再放送が最近なされました。
当時の感想文に今回の感じた内容を追記して
お届けします。




昭和レトロの家というと、芋太郎の両親たちの世代が自分の家を
持ち出した頃のマイホームであろうか。
実は、芋太郎の子供心に、目標となる家があった。


前にも話しているが、友人の家。
それは、洋風の玄関と左脇にこじんまりした洋室・洋館が建ち、
家族が暮らす右脇から奥は、和のつくりであった。
洋室は友人の父親の書斎兼応接間であった。


大きな部屋ではなかったが、多くの書物と重厚な雰囲気が魅力的
であり、小さな子供には、異国情緒のある部屋であった。
今でこそ映画で見かける欧米書斎のミニチュアのような部屋
であった。


僕も、大人になったら、このような部屋を所有する。
これが少年芋太郎の小さな夢であった。
いまだ実現してはいないものの、書物の数と大きな机は実現して
いる。
後は、落ち着いた環境を手に入れたい。
定年前には落ち着きたいものだ。


さて、話題は、昭和レトロの家に戻る壺を番組に沿ってご紹介
いたします。


<美の壺1:新しい住み方が間取りを変えた>


昭和30年生まれ以前の方は子供の頃の思い出は、続き部屋では
なかろうか。
今でも地方の農家に行くと観られる。
芋太郎の生家も立派とはいえないが、やはり玄関から和室(広い)が
2間続き、縁側と奥廊下がありました。
同時に玄関から右にはお勝手(これまたかなり広い空間)とお風呂場
土間がありました。
さらに、後年増築し、玄関前の座敷から奥へ2間増えました。


昭和の家の前までは、座敷を通り、次の座敷へ移動することが当たり前。
しかも、客間と家族の暮らす生活空間は別である事が常でした。


昭和の家は、欧米の個人主義の息吹を模写し、サラリーマンが新に家を
取得した時代です。
それは、従来の家から異なる中廊下(現在は主流)をハブに配置し、
どの部屋にも移動できる空間の創設でした。


生活空間に対する考え方の基本理念が変わり、お客様中心の生活空間から
家族中心の生活空間に変わり、家とその居住性を楽しむように、
時代は変化しました。
しかも、当時は、和の建物に、洋館と呼べるような洋室を継ぎ足し、
なんともいえぬ異国情調を醸し出しました。


玄関脇の洋間
日本の明治以前の家屋は、お客様をお迎えする家が中心でした。
お客様と主は立派な部屋で。
家族は、奥の間で生活をする。
それは、往々にして簡素な建物でした。


この流れが変わったのが、大正から昭和の初期です。
家族の家としての憩いの場所となりました。

それは、経済発展とともに成し遂げられました。
大都市近郊の住宅地に多く見られます。
サラリーマン世代を中心に昭和の家が形作られました。

小さな洋館を併せ持つ、風変わりな建築。
それが流行した時代です。
洋間は、従来の客間で、お客様をもてなす場。


そこには、単なる洋間ではない、日本の建築関係者
の熱意と創意工夫の形跡を見て取ることができます。


<美の壺2:異国の装いで世界に一つだけの家>


昭和レトロの家として、番組では大正時代から昭和初期に流行りだした
異国情調ある建材類を紹介します。
結露ガラスや木製の出窓。
まさに、芋太郎が友人宅でみた家そのものです。
ウォールナットであったか、マホガニーであったか覚えていない。
いや、わからなかった。
少年時代の小さな洋館と呼べる洋室。


そして、和の建築も和洋混合の内外装。
切妻にスレート屋根とか、洗い出しの外壁で趣を出します。
当時の大工さんが見様見真似で洋と和を折衷し、腕前を披露しました。


屋根のスレートに石を
妻飾りなどの日本建築の要素を取り入れ
網代天井が洋風にアレンジされ
洗い出しやなめし加工などの技法も馳駆しました。


明治の建築が国家の建物であるならば、大正から昭和初期の建物は
個人の建物に文明開化の足音が響きます。
以前紹介した前川國男邸もその一つ。
ル・コルビジェの教えを学び、民間の建築デザインを示した。
(参考)



<美の壺3:実験住宅に和モダンの極致あり>


前川に代表される昭和初期の建築家は、国家から個人の住宅建築への
流れを示し、自らの住まいで新しい実験を行う。
戦争の日々であった当時の時代であるが、彼は現代マンションの原型
とも言える間取りを実現している。
詳細は、上記リンクでお読みください。


文明開花の歩みは、明治の国家的建築から始まり、昭和初期の個人住宅で
完成して行く。
芋太郎があこがれた書斎のある洋館も、この頃から出来上がっていた。
そう、友人の父は○銀の関係者でありました。
当時としてはハイカラ層であった。


あの友人と何十年来会っていない。
いまどうしているだろうか。
無論、あこがれた家は建て直しされたようです。(残念)


根無し草のように転勤を繰り返した芋太郎。
早く落ち着きたいと考えるこの頃である。(年かな?)


2010年3月27日(再放送による手直し:2011年3月5日)


昭和モダン建築巡礼 西日本編
磯 達雄,宮沢 洋
日経BP社


昭和モダン建築巡礼 東日本編
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日経BP社

美の壺:大谷石

2011-03-01 22:25:47 | 美の番組紹介
美の壺:大谷石



大谷石といわれて、あなたは何を思いますか。
やわらかい石、薄緑色の石、
それは塀であり、観音様でもあり。


私の大谷石の思い出は石垣です。
私の時代は、ほとんどの家が生垣か板塀
でした。
大谷石の石垣は珍しく、富の象徴でもあり
ました。


時代は変わり、現在の街へ転居しましたが、
この周辺は、昔から大谷石の石垣が連なる
街並であったそうです。
いまでもその一部がいたるところに残って
おります。
場所は・・・(内緒



さて、番組の紹介をいたします。



<美の壺1:みそが醸し出す温もり>


栃木県宇都宮市大谷町が起源です。
大谷石は栃木のシンボルでもあります。
本場では、大谷石の建築物がいたるところ
に散見されます。


やわらかい
やさしい
心が和む

などの特徴を挙げる人々が多い。
そのなかでも、表面の「穴」=みそ
が特徴です。

科学的には、火山灰が降り積もりできた岩
が大谷石であり、火山灰に紛れ込んだ
木の破片などの不純物が「みそ」として
黒いしみを形作ります。


この「みそ」は、長い年月の間に、
風雨にさらされ、洗い流されて「穴」
になる。
この穴がなんとも特徴的な感慨を醸し出す。


無数の隙間が風情すら感じさせる。
大谷石の石段や敷石がそれです。



<美の壺2:和を引き立てる名脇役>


大谷石との相性がいいのが日本建築です。
木や土との相性は抜群。
通常は木でつくられる部分を大谷石に代替
しても全く違和感が感じられない。


番組では宇都宮から移築された柳宗悦の家
が紹介されていました。
東京民芸館に現存するそうです。
そうそう、あそこには前川邸も確かあり
ましたね。(ル・コルビジェの)


木だけでなく、瓦やなまこ壁も大谷石で
代替している。
石ほど冷たく感じない
ちょうど、石と木の中間的な感じです。



<美の壺3:フランク・ロイド・ライトに学ぶ>


ライトといえば、帝国ホテル/甲子園ホテル
ですね。
現在は愛知県に移築されています。


あのライトは、帝国ホテルの内外装に
大谷石を最大限に利用しております。


その特徴は、光だそうです。
光らない石が光って見える。
やわらかい石を削り、「つや」を生む。
そのつやこそが、光です。
光はつやとなり、独特の陰影を生む。


光がやわらかさとつやっぽさを引き出す。
なんとも魅力的な光景です。



追伸

番組では語られなかったですが、
私は大谷石の魅力はさらに苔むした大谷石に
あると思います。
苔むしたというのは間違いで、
苔を感じさせる大谷石の風化を愉しむこと
です。


実は、近くの大谷石の石垣は、年代ものが
多く、唐松や大層な羽振りの木岐がその上を
飾ります。
木岐の緑と大谷石の苔質感に、
安らぎを覚えます。



住宅展示場で暖炉の周囲に大谷石を利用した
建築も拝見しました。
これもまた、いいですね。


魅力いっぱいの大谷石。
あなたはどのような感慨をお持ちですか。


平成23年3月1日 川越芋太郎


フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル
明石 信道,村井 修
建築資料研究社

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