「美の壺:少女雑誌」 NHK
「少女雑誌は明治時代に始まりました。」で番組が始まります。
江戸時代からある女性絵画としては、浮世絵があります。
近代日本は、欧米文化を取り入れて、脱亜入欧に明け暮れる
時代でした。
明治35年、その時代背景の中で、誕生したのが女学生です。
女学生をターゲットに最初の雑誌が創刊されました。
それは、女学生対象ですから、一部の階級の方々を中心として
広まります。
以後、昭和初期にいたるまで13誌が刊行され、少女雑誌は
活況を呈していました。
東京の弥生美術館で少女雑誌の展覧会が開かれております。
(10/1~12/23)
少女雑誌の芸術性が今、改めて女性たちに注目されています。
出かけてみてください。
<美の壺1:カバーガールの瞳の奥を見よ>
私の少年時代、姉がよく少女雑誌を見ていましたが、どうしても
あの眼の大きさが芋太郎には理解できませんでした。
姉は、全然気にしていませんでした。
これは、男性には理解できないかもしれないと薄々感じて
いました。(笑)
本日、番組をみて、改めて理解したような気がしました。
瞳の大きさに注目して時代考証がされます。
雑誌の表紙絵の少女像の瞳は明治から大正、昭和にかけ徐々に
大きくなっています。
なぜでしょうか?
明治38年の「少女界」の表紙絵までは少女の目が、線や点で
シンプルに描かれ、江戸時代の美人画の伝統を受け継いだ顔です。
大正5年頃には、竹久夢二の描く少女像が登場。
初めて瞳が開いて描かれています。
見開いた目で語りかけてきそうな、生き生きとした表情です。
竹久夢二関連美術館は数箇所あります。
都内美術館:
大正15年「少女画報」。夢二後、大きな瞳が主流になり、
高畠華宵の描く少女は、大きな二重瞼。
白めが強調され、あでやかささえ感じます。
高畠氏関連(愛媛の方へ)
昭和14年「少女の友」。
瞳は、昭和に入ると極端な大きさになります。
中原淳一の絵。
中原淳一関連ホームページ
大きな瞳が支持された背景には、理由がありそうです。
家父長制による女性の立場が背景にありそうです。
当時、自由な発言ができなかった少女たちが目で自分の意思を
主張している気がします。
自己表現への思いが感じられます。
<美の壺2:付録は夢一杯の紙の宝石>
付録も充実していたようです。
小さくても、かれんで精巧な手作業の技術を使った付録の数々。
少女たちが大切にした宝物は今日でも残っています。
「少女の友」昭和12年当時の付録。
「スーヴニール」思い出、と題された小さなノート。
表紙は、木彫りかと思う重厚な立体感。(厚紙を型押ししたもの。)
そこには、発行者の工夫と思い意や熱意が伝わってきます。
今では、中原淳一の絵と北原白秋など文豪の詩が描かれた
豪華なものです。
付録の最高傑作といわれる、「彦根屏風たとう」。
手紙や切手などを収納します。
国宝・彦根屏風をアレンジして作成。
どのような手紙を書いて、どのような手紙を受けたったので
しょうか。
採算を度外視した当時の編集者たちの、いい物を作り少女に夢を
与えたいという熱意が原動力のようです。
<美の壺3:誌面はちょっと危ないほうが面白い>
少女雑誌は「良妻賢母」を標榜する、一方で少女たちが抱く恋愛への
憧れに応えたつくりです。
昭和12~13年に連載された川端康成の少女小説「乙女の港」。
ミッションスクールを舞台に上級生と下級生が、「S(エス)」と
呼ばれる、友情を超えた関係をもつ物語です。
いわば、擬似恋愛の走りでしょうか。
今時の女性誌同様に、読者の中から選ばれた少女がモデルになり、
「乙女の港」を実演する誌面も登場しています。
しかし、昭和15年、少女雑誌は、軍からの圧力のよって路線変更を
余技なくされます。
家父長制度が彼女たちの口を硬く小さくし、瞳で語る時代をもたらし、
軍事偏重社会は、恋愛のテーマを抑圧し、戦時色に変貌します。
どうやら、歴史的にも、女性の言動を押さえる時代はあまり芳しい
時代ではないようですね。
つかの間の美の王国が少女雑誌だったようです。
私たちは、ここから何かを学ぶべきでしょう。
人が人を押さえ込む、男が女を押さえ込む。
抑圧の歴史。
しかし、それゆえに、芸術とはある意味存在性を増す?のか!
神の国に芸術はあるのだろうか。
天国にも芸術はあるのだろうか。
そこでは、大自然の美こそが芸術になるのかもしれない。
ともあれ、芋太郎が関心することは、このような古い宝物
が保管されていることだ。
転勤族の身には、どうしても羨ましい。
大切なものが次々と転勤の度に行方不明になる。
はやく、落ち着きたいものだ。
そろそろそんな年齢かもしれない。