地域のお宮といえば八幡神社である。神主など常駐している者はいない。そうであっても正月や、この例大祭ではどこからか神主が来ているようで、細々ながら続いているが、高齢者とわずかな子供を中心とした家族が集まっている。自治会もお菓子を出すなどの引換券を各家に配布しているようであり、例年の行事となっているようである。
朝方から何やら準備があるのか、地元で商売を行っている商人が手伝っているようであるが、普段見かけない高齢者も多い。社務所の小型版には神輿も鎮座し、寄付の金額と氏名を書いた看板が異様に映る。献酒なる酒樽や、一升瓶も祭壇に飾られているが、その前の俄かケーブルには酒のつまみと茶碗が並んでいて、酒盛りが行われる。誰でも参加は自由であるのだか、寄ってみたいとは思わないし、話題すらない。
要は一部のもの好きの集まりであり、ふるまわれるお神酒をありがたがっていただく姿は、現代から遠く離れた鎮守の祭りを彷彿とされ、違和感だけが残る。今時、ただ酒をありがたくいただく意味は何であろうか、小太鼓を子供が引きまわし、子供神輿もあるようで、子供が少ない中で、どのようにして人集めをするのか不思議でならない。同時に行われる地域ごとのお祭りを掛け持ちするのであろうか。大人神輿も、50代60代が中心では気合が入らず、最近は元気でいなせな女性の参加が目立つ。
例大祭の意味すら遠くへ行ってしまい、その意義さえも無意味となりつつある。地域にあった農家は代替わりし、農地は駐車場やアパートに代わっている。住宅地域に変わり、サラリーマン世帯が大部分なのである。地域に根差した神事は仏教と同様に衰退が目立つ。
日常の生活の中に、地域を守るはずの八幡神社は、何らの影響も与えなくなっている。自治会を含め、数少ない者が旗振り役やお世話役となっても、笛吹けど踊らずの現実はどう判断しているのか、その答えすら知ることはない。
確かに、夏場を過ぎ、風が涼しく感じるようになる時期が何らかの郷愁を求めることはあるのであろう。そのように考えれば、代替え手段であろうとも、細々と続けることの意義はあるかもしれない。笛や太鼓が、地域を超えて、日本人の心のどこかに残っている古き生活を呼び起こすには、良いチャンスであろう。それを行うことが決して地域の共存や共助と関係なくてもである。人間は意味を考えてから行動しなくても、結果を考えずとも、行うことにのみに意義を感じればよいのかもしれない。