gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

曲学阿世

2016-05-16 09:24:38 | 政治
私は、東京の大学に進学するときに、’頭でっかちになるな’ と、田舎の衆から忠告された。今考えてみると、本当にそうだと思う。
現実肯定主義の日本人は、西洋哲学を学んでも、頭の中には入らない。非現実の内容を語っても、’そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と言い返されるばかりである。意味のない知識をつめこんで、ただの頭でっかちになるだけであるから、曲学阿世の輩は、哲学 (非現実) を処世術 (現実) の口実に使う。曲学阿世とは、学問上の道理まげて世間の人気にこびへつらうことを言う。これしかない。考えの混乱・東洋の阿呆というものであろうか。
日本語には時制が無いから、実況放送・現状報告の内容以外は言葉に言い表せない。だから、日本人には非現実の内容は考えられない。非現実の内容は想定外となっている。最悪の事態の内容は、目の前に起こっている事ではないので、想定外となっているのである。活躍しない自衛隊は、税金の無駄遣いと考えられている。自衛隊が活躍しなかった現実が我が国民にとっての最高の幸福とは考えられてはいない。これでは、危機に備える国防論は成り立たないので、精神状態はきわめて危険である。我が国民は頭に致命的な欠陥のあることを知らなくてはならない。哲学者・政治家・教育者は責任を感じなくてはならない。
平和憲法は、政治哲学である。遠い未来の行き着く先の内容を示している。我が国は、無哲学・能天気の民族国家である。だから、哲学は知っても役に立たない。そして、それを処世術に切り替える。哲学の無い政治家は、政治音痴の政治屋になっている。彼らは来るべき世界の内容を提唱しない。
この現状を幸いとして、我が国の防衛を外国人に担わせるときの口実に使う。’当方には立派な平和憲法があるのですよ。残念ながら、日本人は戦うことができません’。 ‘どうぞ、我が国のために戦ってください’ という。これは、世界にも見られない極上の口実であると、一般には信じられている。どうして日本人はこうも頭が良いのかと思っている人も多いと思うが、悪知恵とちがうのかな。
インテリで哲学を信じる者はいない。だが、習い覚えた哲学の利用法として、処世術の中で口実・方便として役立てることを知って得意顔をしている。西洋から得た知識の片鱗を見せて、進歩的である思い込み得意顔をしている。ちょうど釈迦如来の手のひらの上で得意顔をしている孫悟空のようなものである。彼には世界観がない。この口実を告げられたアメリカ人で、日本人の欺瞞に気づかない者はいない。安保ただ乗りか。
時制ある英語を学べば、非現実の内容を理解できていない人間は、未熟な子どものようなものであることがわかる。英米の高等教育は、子供を大人にするための教育である。この教育に失敗すれば、民度は子供の水準にとどまる。どうか、このことを確かめてみてもらいたい。
日本人は教養がないから、相手に対する説得力に欠けている。そして、我が国の出版物は英米のものに比べて質が劣る。新聞に ‘THE WALL STREET JOURNAL’や ‘Financial Times’,のようなものが無い。週刊誌に‘Newsweek’や ‘TIME’,のようなものがない。科学雑誌に ‘NATURE’や ‘SCIENCE’,のようなものが無い。これでは国際社会において名誉ある地位を占めることはできない。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

.





神格化の否定

2016-05-09 15:42:09 | 政治
>昭和20(1945)年12月、GHQは我が国と神道(しんとう)のつながりを断ち切るため、国家が神道を支援したり、あるいは普及させたりすることを禁止する神道指令を発しましたが、その次の段階として、天皇の神格化を否定しようと考えました。

日本語の階称 (言葉遣い) による ‘上とみるか、下とみるか’ の判断は、天皇の神格化につながりますからね。天皇の神格化は、アメリカ人には考えられないこと。法王 (現実) も神様 (非現実) にはなれないのだから。無哲学の国民には、これは分からぬこと。

>しかし、これをGHQの主導で無理やり行えば、日本国民の反発を招き、占領政策に悪影響となるのは確実でした。
>このため、GHQは昭和天皇があくまでも「自主的」に神格化を否定することを期待したことで、その意を汲(く)んだ宮内省によって、GHQを納得させることができる詔書の作成が行われました。

天皇の神格化否定されても、我が国の人間序列が消滅するわけではない。無哲学・能天気な人間の発する ‘上意下達’ が無くなるわけではない。日本人には意思が無いので、この場合、上意は ‘上位の者の恣意 (私意・我がまま・身勝手)’ になる。上位の愚鈍、下位の愚直は今なお続く。

>こうした動きに対し、昭和天皇は元々自らが現人神(あらひとがみ)であることを否定されておられたので、特に問題には思われませんでした。なぜなら、天皇と国民とのつながりは、神格化によってのみ保たれるような弱いものではないことを、陛下ご自身が一番理解されておられたからです。

日本語には、階称がある。階称は文法ではないけれども、その使用法を知らなければ、日常会話にも差し支えるほどの重要な意味を持っている。それで、日本人にとって序列判断は強迫観念になっている。敬語を想い起しただけでも、この身がしびれる。’上とみるか、下とみるか’ の想いは、玉砕精神を呼び起こし、海行かば、 ・・・。 これも (修身) 教育の効果であるか。

自己慶賀の話はとてつもなく気持ちが良い。だから、国粋主義 (超国家主義) はやまらない。国際社会の中において、名誉ある地位を占めたい。これも伝統的な向上心の表れであるのか。日本よい国、きよい国。世界に一つの神の国。この道は、いつか来た道。ああ、そうだよ。序列メンタリティは治らない。

日本人の礼儀作法は、序列作法である。我々は、礼儀正しい人間にならなくてはならない。序列判断は、自分の身の回りだけで通用する基準である。哲学が無い。皆に対して大同を提示すことができない。処世術であるのか、世界観がない。’自分さえ善ければ’ である。孤高の人だから、外国人に対して説得力がない。日本人の励みは孤軍奮闘に終始して、常に自己満足に終わる。国際性に欠けた作法になる。一国平和主義のようなものか。諸国民の公正と信義に信頼を寄せる能天気に危険はないのか。

.



深刻な欠陥

2016-05-05 13:02:20 | 政治
>自由・平等・博愛、あるいは個人主義・民主主義、あるいは権利(人権)という観念、これらは全て、現実にはどこにも存在しない、頭の中だけの架空観念に過ぎない。
>現実には存在しないということは、事実に反する観念だと言い換えることもできる。

事実で無ければ嘘である。’嘘も百回繰り返せば真実となる’ という人もいる。だから、語られた事実は事実そのものとは異質なものであることがわかる。語られた事実のみを暗記させられている人は、嘘で固められた人生を送る怖れがある。聞くと見るとでは大違い。語られた事実は、誰の手を経ることもなく自らが得た(firsthand) 体験ではない。だから、語られた事実に対しては、一応、嘘ではないかと疑ってみる必要がある。正しい知識を得るためには、みずから体験する努力が必要である。

日本語は現実用の言葉である。実況放送・現状報告のための言語である。書いてある内容が現実に存在しない。現実でないものは事実ではない。事実でないものは語る価値が無い。日本語には、時制がないから、非現実の内容は語れない。日本語のみを知る人は、現実肯定主義の人になる。
現実用の言葉で非現実の内容を語ればどうなるか。それは嘘になる。嘘を流布させようとする試みは社会に害毒を流す。このようにして、我が国では啓蒙思想家は否定される。
非現実の内容を現実に変える努力をすることにより創造は生まれる。これは英米の目指す高等教育である。現実を現実の中で再現すれば、それは模倣になる。模倣ばかりの励みでは、夢も希望もない。北東アジア (日本・中国・韓国) における猿まねの競争は、とかく過酷なものになりがちである。
時制ある考え方 (言語) を学び、自分自身の世界観を得て、国際的な未来社会の建設に互いに協力できるようにしよう。

>近代思想は、ユダヤ・キリスト教の観念パラダイムを踏襲しているが、神であれ、個人であれ、権利であれ、それらは全て、現実否定→自己正当化という思考回路が生み出したものである。
>つまり、貧困や抑圧に満ちた現実世界を否定し、(現実世界の変革に向かうのではなく)頭の中に「神」や「自由」や「権利」etcの観念を創出して、その観念に寄り縋るという思考態度である。

非現実の内容は、現実否定になりがちでしょうね。自己正当化のできる非現実の内容を主張しないといけませんね。
観念 (考え) の創出を嫌っているようですね。脳内にある観念の内容を脳外で実現できれば、それは人間固有の偉大な創造力を発揮したことになるでしょう。
実社会の修復だけでなく、画期的な未来社会の建設に取り掛かる必要がありますね。建設的な発想法には、世界観が必要です。いくつもの世界を描いて見せる技術が必要です。使用言語に時制のあることが必要ですが、残念ながら日本語には時制がありません。

>セム人や白人がそのような思考方向に向かったのは、4200年前~3200年前、コーカサス周辺での皆殺しの略奪闘争の連鎖によって、共同体が完全に破壊され、再生の現実的な立脚点を失ってしまったからである。

そうですか。私には、よくわかりませんね。

>従って、彼らには、現実世界の変革に対する不可能視が刻印されており、現実とは逆の非現実の世界に救いを求めることになる。
>近代観念も、その延長上に生み出されたので、極めて深刻な欠陥を孕んでいる。

現実肯定主義者には、非現実という言葉さえない。あるのは嘘のみ。
観念 (考え) には、正しい (矛盾を含んでいない) ものと、そうでないもの (空想・妄想) がある。
非現実に関する正しい考え方を身に着けよう。さすれば、高尚な人間になれる。

現実肯定主義者には、哲学 (非現実) の勉強はできませんね。時制のある文章がないと非現実の内容の世界は描くことができません。英米の高等教育機関で勉強しても挫折することでしょう。
哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) を目指す教育を受けてめでたく成就しても、無哲学・能天気の社会に帰ってきては、相手にされない。何の役にも立つことはない。
このような事情があるので、我が国の学生には、留学は人気がないのでしょうね。国際協調にも支障をきたすので、極めて深刻な欠陥を孕んでいるといえます。


.







反省

2016-05-01 14:11:17 | 政治
>第一線の将校や隊長は、失敗すると処罰されたり、詰め腹を切らされ、時には命まで失う羽目になることがあるが、軍司令官や将軍達はどんなに失敗しても処罰はない。 作戦指導の失敗や、自分の一声で多くの将兵の生命が失われても恬 [てん] として恥じないばかりか、歯牙にもかけないのでそこには何等の反省も生まれてこない。

意思のないところには責任がない。意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制が無い。それで、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。
だがしかし、日本人には恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。恣意は片言・小言・独り言にはなるが、文章にはならない。文章内容にならないものは、考えではない。矛盾を指摘することもできず、議論にもならない。
片言隻語は脳裏にはたまらない。雑念であるから精神集中を妨げになるので、頭の外に振り払われる。そして、腹の中にたまってどろどろとしたものになる。腹芸の原動力となる。日本人は腹にたまっているものを重視する。それで、腹の探り合いをする。腹をくくって決着する。そこにリーズン (理性・理由・適当) はない。だから、自分の言動に説明責任はとれない。
意思があれば、加害者意識 (罪の意識) も生まれる。意思が無ければ、加害者意識も無く、深刻な反省にも至らない。過ちは、繰り返しますから、、、、安らかに眠ってください。
過去の内容は、目の前にはない。その内容は頭の中にある。過去時制の文章が無ければ、その内容は辻褄の合うものにはならない。その内容もわからず、反省もない。ただひたすらに、供養を繰り返すのみ。
過去時制の作文ができれば、その話が恐竜時代の内容であっても事細かに語ることができる。だから、過ちを避けることができる。ここが、英米人と日本人の能力の違いである。

< 日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)


.