サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

NHKドラマ 心の糸

2010年12月02日 | 手話・聴覚障害
先週土曜日放送されたNHKドラマ「心の糸」をやっと見た。
ろうの母親(松雪泰子)と健聴者である息子(神木龍之介)、つまりコーダの親子の葛藤を描くドラマ。
ちなみにコーダとは、children of Deaf Adults の頭文字を並べたもの、つまりcoda。
映画「アイコンタクト」でも選手の友人のコーダに出演してもらった。
  
いろいろとリサーチして丁寧に作ったのはよくわかるが、ドラマを見ていて疑問に思うことがかなりあった。
見ていない人にはわかりにくいが、思い出すまま素朴な疑問を列挙してみる。
  
例えば冒頭のスーパーの場面の最後で、何故息子が読み取り通訳をしない。
途方にくれた顔で終わりたかったのであろうが。
仕方なく読み取り通訳をして、音をナレーションに切りかえる手もあったのでは?
読み取り通訳をしなければ、母は「読み取り通訳しろ」と言うだろうし、
冒頭からいきなり相当な違和感を感じた。
仮にその場面はいいとしても、その後の住民会議の際も読み取り通訳をしない設定がある。
あえて拒否するという場面以外は、同時に読み取り通訳するのが自然なのでは。
通訳する際、気を使ってソフトな表現に翻訳しなおすという点は描いていたので、逆に違和感があった。
  
聴覚障害者を扱うと、その対極にある(あるいはあると思われる)音楽が登場するのは、いかにも健聴者的な発想なのかな、まあいいけど。
ピアノが出てくる以上、音の振動を感じる場面をどう表現するのかと思っていたら、母は隣室の畳に手を置き、振動を感じていた。
ピアノのおいてある部屋のフローリングに手を伸ばしてもよかったのでは。
作り手としては、母と息子が心の糸でつながっていて、だから編み物をしているその場こそ適切だと思ったようであるが。
理屈はわかるが凄く違和感を感じてしまった。老朽化しているから振動が伝わるといえば伝わるのだろうが。
また振動を感じる場面では、千住明さんの作った音楽に切り替わり、振動として伝わってくる音作りはしなかったようだ。
最初にピアノを買い与え息子を慈愛の眼差しで見つめる場面くらいは、指の動きを見てピアノを直接触り感じてもよかったのではとも思ったが、いつも遠巻きに見ているが、心の糸ではつながっているということなのかなあ??
  
また息子が知り合った聴覚障害者の女性がピアノを感じる場面では、ピアノに手を置いていたが、うっかりすると見逃してしまうような撮り方がされていた。彼女はピアノに手をおいていたが、そのことがわかる2カット目の手の置き方は、少々乱暴な手の置き方に見えた。
というか彼女はどれくらいの聴力レベルであるかの説明は一切ないので、どれくらい聞こえているかさっぱりわからなくて、バンドの時もどうやって他のメンバーの音やリズムを感じているのかよくわからなかった。
バスドラを振動で感じていたのかな。しかしその割には振動を感じやすい位置にバンドのメンバー配置しているわけでもなく、見た目的に左が聴覚障害者、右に健聴者と分けてあった。
彼女は補聴器をしているのか注意深く見ていたが、髪に隠れていてわからなかった。撮る側は見せない、説明をしないという選択をしたようだ。
彼女のキーボードは本当に下手くそで、そのへんのリアリティはよく出ていた。
  
ろう学校で皆が音楽を楽しんでいたが、あれだけ大人数の人間が音楽を楽しんでいることに少々引いてしまった。あの人数はろう学校の人数からすると相当な人数だ。もちろん聴覚障害者の中にも音楽が好きな人もいるが、少なくとも多数派ではない。
   
私たちにできないことが3つあるとロッカーの裏に書き付けた文面の中に、しゃべることが含まれていたことに違和感をもった。
現実にはもちろんしゃべれない人もいるが、相当しゃべれる人もいる。
ロッカーの裏にそのことを書き付けたのは1986年のようなので、母親は1968年生まれの42歳の設定(だと思う)。補聴器の性能もまだまだで聴覚活用によりしゃべれるようになる人が少なかったとは思うが。
その当時はろう学校で手話が禁止されていて口話主義の真っ只中、しゃべれることができないというよりは、うまくしゃべることができないという方が適切のような気もするが。少なくとも母は口話はかなり苦手だったのだろう。
あるいはその当時の口話主義教育の裏返しで、聞くことしゃべることはできない、できるのは目で聞くこと手でしゃべること。そういったことをロッカーの裏に書き付けるという、その当時の教育に対するある意味でのアンチテーゼだったのだろうか??
 
長くなってきた。
今度は手話の撮り方。
手話の撮り方に関しては苦労の跡が見えたが、手話が見えない部分も多々あったので、手話を中心に見ていると手話を見たり字幕を見たりする必要があった。
手話が見えやすい位置からのみ撮るというのは難しいのはよくわかるし、ドラマの画作りとしてはそうしたくないという点もよくわかる。
まあ手話をなんとか画面の中に入れようと努力している点もよくわかるが、そのことにより、アップになったり引いたサイズになったりとてもぎくしゃくしたカット割になっていた。
字幕が入るスペースをあけてもう少し引いたサイズから始めたり、アップにいきたくてももう少し我慢したほうがいいのでは、とも思った。
もちろん手話は手の動きだけではないので、表情で伝わるといった判断もあったことであろう。
 
母の手話が美しいかどうかは私には判断がつかないが、あまり美しいとは思えなかった。私には美しさを感じる能力がなかったということかもしれない。印象としては男性的なごつごつした印象、そういった役柄だったとも言えるし、手話指導の方の指導をなぞったということかもしれない。
ろうの女性との会話の場面では、もう少しタメる部分があってもよかったのではないか。あるいは息子との、ピアノをやめるといったやり取りまではあまりそうしないという手話演技プランだったのか。
 
母は息子に聴者として聴者の世界で立派に育っていってほしい、またそういった息子を育てることが出来るという証明のためにも、夢をピアノに託している。
だとすれば、あそこまで息子に通訳的なことを求めるだろうか?
コーダの中にも、ドラマに出てきた息子のように自然と通訳的なことを果たすようになった人もいれば、聴者の世界で生きてほしいという思いで、まったく手話を子供に教えないで、結果として手話を覚えないで育ったコーダも多数いるようではあるのだが。母一人子一人ではそうもいかない、背に腹は変えられない、という事情も考えられるとは思うが。
 
いろいろと勝手なことを書き連ねてきたが、以前の無茶苦茶なドラマより遙かに進化してきているのは確かだ。
スタッフ、キャストの方も大変だっと思う。