サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

相模原障害者殺傷事件についての雑感

2016年07月29日 | 障害一般

 神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件から数日が過ぎたが、いろんな思いが錯綜している。

 
最初の一報に触れた時は今年2月川崎の老人ホームで起きた殺人事件を想起した。またしても介護の現場で痛ましい事件が起きてしまったのかと。時折起きてしまう“職員による虐待”の延長線上の殺人。
 次に殺された方々の数の多さにただただ驚いた。
  そして
「障害者がいなくなればいいと思った」という趣旨の供述からナチスの優性思想に基づく障害者虐殺のことが即座に思い浮かんだ。現代においてこんなことを実行してしまう人間が本当にいたのか?という、驚き、恐怖、憤り。
 いったい何が起きてしまったのだろう?

 障害といっても実に様々だ。殺人犯は“誰”を殺したのか?報道では当初“重度障害”という漠然とした言い方だった。
 
衆議院議長に充てた手紙を読んだ。重度障害という言い方ではなく重複障害という言葉が使われていた。殺人犯は重度知的障害と何らかの障害の重複障害者を“ターゲット”に考えていたようだった。
 
殺人犯は職員として重複障害者のケアをするなかで「この人たちは何故生きているのだろう、何のために生きているのだろう?生きている意味があるのだろうか?」と考えたのだろうか?   殺人犯と同じ立場にたてば少なからずそんなことが頭に浮かぶこともあるだろう。食事介助や排泄介助が思うようにいかなかったり、家族と絶縁状態にある障害者と接すれば思いが強くなることもあるかもしれない。
 そこまでの部分には共感できるものもあるだろうが、その後「(役に立たない)障害者はいなくなるべきだ」と考え暴力をふるい凶行にいたった植松殺人犯はあくまで特殊事例だ。 仮に手紙の文面で一部共感できる点があったとしても、視覚障害者でもある藤井克徳・きょうされん専務理事も言うように、容疑者の言葉にふりまわされてはならないだろう。
 同様の立場の方々の多くは、何らかの解を見出し仕事を続け重度重複障害者のわずかな感情の変化をくみ取れるような職員になったり、「向いていない」とやめていったりするだろう。
 
 
 だが殺人犯の狂信的な優生思想に共感してしまう人々も少なからずいるのも悲しいながら事実だろう。
 現在の日本において、弱者を切り捨てるといった排外的な空気感が一部あることだけは確かだ。殺人犯もそのことを感じ取り、その空気感が殺人犯の歪んだ正義感を後押しした面も否めないのではないか。少なくとも殺人犯は、安倍首相の目指す社会との親和性を感じたことは確かだろう。
 
 強者のために弱者が切り捨てられる社会、弱者に寛容な社会、どちらの社会に人々は住みたいだろうか?どちらの社会が住みよい社会だろうか?

 亡くなった方々は実名ではなく年台と性別でのみ報道された。家族などに配慮してのことだという。確かに障害者関係の施設などに撮影取材依頼をしても断られたり顔を写せないといったことは多い。家族に障害者がいることを知られたくなかったり、あるいは家族で面倒をみることができず施設に預けていることを知られたくなかったり。現在においては致し方ない面もあるだろう。
 しかし殺された人々は障害者である以前に1人の人間であるはずだ。実名で報道されても問題の無い社会であってほしい、家族を入所させても後ろ指を指されない社会であってほしい。

 「措置入院をもっと長く」という議論も語られているようだが、この事件により精神障害者全般への偏見につながることがあってはならない。また日本は精神科に長期入院させてきた世界でもまれに見る歴史を有し、その問題は現在尚続いている。歴史が逆戻りすることがあってはならない。

 
 殺人犯は友人とのラインのやりとりで「話は障害者の命のあり方です。目、耳に障がいがある人たちの場合は尊敬しています。しかし、産まれてから死ぬまで周りを不幸にする重複障害者は果たして人間なのでしょうか?」と書き込んでいる。
つまり殺人犯は社会に有用な障害者、不用な障害者を分けて考えていたことになる。

 重複障害者や重度障害者が人間であることは間違いない。
しかし「何故生きているのだろう?何のために生きているのだろう?活きている意味があるのだろうか?」
 その問いに明確に答えらる人は多くはないかもしれない。
 
 だが仮にその問いを自らに向けた時、明確な答えを人々はもっているのだろうか?


(社会的には植松容疑者と呼ぶべきなのかもしれませんが、ここでは殺人犯という言葉を使用しています)