京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

入れました、コインパーキング。(釜座押小路のお話)

2007-10-09 09:00:42 | 京都観光に役立つ?話


釜座(かまんざ)押小路パーキング
30分100円、最大料金1300円。(土日も)

御池の市営駐車場がだいたい倍額、土日は上限無しになりますから・・・
これは得した気分です。

要は、交通機関などへの便利度によって、料金が変わってくるみたいですね。
確かに少し歩きました。

こういう駐車場は、普段は御近所さんの親戚・来客用か、業者用に使われているのでしょうか。
西陣近辺では、よく見かけますね。
コインパーキング。

さて。
奇遇なことに、昨日の京都新聞に、釜座押小路のことが掲載されていました。
紫式部関連の記事です。

「紫式部の生きたまち」として、釜座押小路の交差点付近の写真が載っていました。
紫式部の生きた平安時代中期、この周辺は里内裏ともなった藤原道長の東三条殿があったそうです。
釜座押小路の交差点の北西角には、「東三条殿址」の碑が建っています。

記事によると。

東三条殿は、平安時代権勢をふるっていた藤原氏北家の本邸として藤原良房が創設し、忠平、兼通、兼家(道長の父)、道隆(道長の兄)、道長と摂関家に代々伝えられました。
建物のあった場所は、「址」の碑を中心に・・・南北を二条通と御池通、東西を新町通と西洞院通に囲まれた・・・
南北に細長い地域に該当するそうです。

初めは北側半分だった(後に本院と呼ぶ)そうですが、兼家(道長の父)の時、本院の南側に東三条殿南院が造営されました。

兼家の娘・詮子は一条天皇をここで出産し・・・
一条天皇が即位した後は、ここに居住して、東三条院の女院号(出家した)を与えられました。
(つまりは、詮子は宮家にお嫁入りして、内裏?に住んでいたが、実家で里帰り出産、晩年は住み慣れた実家に帰って過ごした、ということでしょうか。)


どうも・・・
東三条殿は、内裏(天皇の住まい)ほど格高ではないが、当時の最高権力者の住まいとして、豪華絢爛?だったようです。
日本史の中で有名な、平安時代の「道長・頼通時代」の表舞台となりました。

それにしても。
当時の藤原北家は、天皇と外戚関係(娘を嫁がせることで、親戚関係を結ぶ)を結ぶことで、権力を保持していましたので。
誰が誰の子供で、誰と誰が兄弟、いとこで・・・とか、ややこしいこと。

西暦1000年前後即位していた一条天皇ですが。
母は、藤原兼家の次女・詮子。(道長は詮子の弟)
妻(皇后)の定子は、藤原兼家の息子・道隆(道長の兄)の娘。
後から嫁いできた(中宮)彰子が道長の娘でした。

ちなみに、定子に仕えていたのが清少納言。
定子が亡き後・・・
彰子に仕えるようになったのが、紫式部です。

要らぬ詮索ですが、道隆(やその息子・伊周)と道長は、兄弟でありながら、権力を争う犬猿の仲・・・
こちらの才女ふたりの周りも、穏やかならぬ空気が漂っていたのでしょうね。
(まあ、この時代、とにかく、ありとあらゆる策略や呪詛、すさまじい権力争いでした。)

さて。
平安遷都以来、これといった大きな火災は起こらなかったようですが。
平安中期以降、都に住む人が増えたことや、内裏が整備されて火を使うことが多くなったことが要因なのか・・・
内裏(天皇の住居)の火災が相次ぐようになりました。
一条天皇の時代になっても、999年と1001年、1005年と度重なり、呪われているようにさえ思えた・・・
度重なる内裏炎上に加え、三度目の火災で神鏡まで損失する非常事態に、一条天皇は譲位を意識するようになりました。

(一条天皇は、自分が譲位した場合、定子の忘れ形見・敦康親王を皇太子につけたかったのですが。
 しかし、道長は、娘の彰子が子を産み、その皇子が皇太子になることを望んでいました・・・
 結局、後に、皇太子となったのは、彰子の子・後の後一条天皇でした。
 彰子は、一条天皇の意に逆らった父を恨んだといいます。
 既に後ろ盾を失っていた敦康親王は不遇を受け、急逝することとなりました。)

さて、この三度目の内裏の大火災。
臨時に、太政官朝所に御座所を置きましたが、すぐに御所を移すことが検討されました。
(ここらへんが胡散臭いと思うのですが・・・)
道長が陰陽師に占わせると、南西か南東の方角が吉方と出たそうです。
(ほんとうか)都合よく、道長がその年に大規模改修して落成したばかりの東三条殿が内裏の南東に当たっていました。

内裏の焼亡から12日後、一条天皇と中宮彰子、皇太子の居貞親王(後の三条天皇)が東三条殿に移って来ました。
道長、まさに権勢を誇る!といった出来事でした。
東三条殿の里内裏は、天皇と中宮が、大内裏の東隣の一条院に遷御するまで、約三ヶ月間続きました。

その最後の日、道長は東三条殿で華麗な花の宴を催されました。



「紫式部の生きたまち」の記事の最後はこう締めくくられています。

花宴は深夜、一条天皇の遷御で終わった。
翌朝、(父・藤原)為時が紫式部に重大な申し渡しをした。
「左大臣殿が、おまえに出仕せよとの仰せだ。
 中宮さまにお仕えするようにとな。」