京都大原紫葉工房便り

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山口旅行 その6 萩城。

2013-11-09 22:16:09 | 中国・四国地方の石垣。

数日前の投稿「山口旅行 その5」の続きです

 

3月26日の午後・・・

松下村塾を出た私たちは、萩市内を東から西へと移動し、萩城へ出かけました。

 

駐車場に車をとめて、歩いて萩城の本丸へ向かいます。

こちらは二の丸の敷地になっています。

 ここは観光地っぽくて、りっぱな石垣づたいの道となっています

 (この辺が南門跡らしい)

どういう意味があるのか、わりあい等間隔に大きな石がはめ込んでありますね。

こちらは、松下村塾・維新系とは違って、江戸泰平期・長州藩エリートめぐり、とでもいうのか・・・

ゴージャスですね

 

松陰も、10代のころは兵学師範だったので、登城も出来る身分でしたが、

東北遊学脱藩騒ぎののちは、士籍を剥奪されたので、たぶん登城することはなかったと思います。

伊藤博文は武士の中では身分の低い足軽だったので、問答無用で来れなかったかと。

身分ていったいなんでしょ~ねもう

ま、庶民の年貢を吸い上げて、日本の美的センスを追求した建築物ですから、

怒らんと観に行きましょう

(というわけで、やっぱり城好き)

 二の丸と本丸をつなぐ極楽橋

(こぼればなし)

ここまでは、次男の機嫌もよく、楽しそうに写っているんですが・・・

この集合写真のあと、次男の身に災難が起こってしまいました

 

私がこういう↑↓写真を撮っている間に・・・

橋の端の手すり ↑ に座ろうと思って、手をかけたら、鳥のフンがべちゃと付いてしまったらしいです

 

別に大惨事ってほどのことじゃないんですけどね~

手を洗えば済むことじゃん、といっても、水道が見つからないし・・・

で、すっかり萎れてしまった次男

宿でお風呂に入るまで、立ち直ることはありませんでした

 

こいつは、旅行先ではしょっちゅうこういう感じになるので、

ああ、めんどくさい、と小腹も立ってくるし・・・

(それでも、怒ると、もっとメンドクサイことになるので 優しく励ますしかない・歯が浮きます

家族旅行は大変ですね

(今でも、思い出しては「あのときは最悪だった」と根に持っています)

 (極楽橋の向かって左側)

     ↑  天守閣跡(奥の出っ張り)

極楽橋から内堀をながめた第一印象は・・・

やっぱり広島城ともよく似ているな~ってことでした。

(極楽橋向かって右側)

それもそのはず

どちらのお城も、築城者は毛利輝元

明治まであった天守閣も、広島城によく似ています。

明治の廃城令で破却されてしまったそうで、ちょっともったいない気がします

おそらく、古い価値観を破壊する意味合いだったんでしょうけど・・・

 

さて、長州藩初代藩主・毛利輝元・・・

もとは、おじいさんの毛利元就の知略のたまもので、中国の覇者として君臨

一時は、中国地方全土と九州の一部を手中に収めました。

元就の死後は、山深い安芸吉田郡山城を離れ、交通の要衝である広島に本拠地を移し、広島城を築城しました。

豊臣政権では、多少領土が狭まったものの、112万石の所領を安堵され、

秀吉の死後は五大老に任じられて、秀吉の息子・秀頼の補佐役をつとめていました。

 

しかし、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成派)の総大将に担ぎ上げられたことが災いし・・・

西軍敗北・江戸幕府の成立後は、大幅な所領の減封を命ぜられ、周防・長門2ヶ国37万石の大名として、

本拠地も、交通の便の悪い日本海側の萩へと移転させられたのでした。

以後数百年・・・維新回天・幕府を転覆させるまで続く、怨恨のはじまりでした。

幕府側から築城地として指定のあった場所は、萩市内を流れる阿武川にできた三角州の先っちょで・・・

島流しに見えないでもない場所なのでした。

↑ 極楽橋渡ってすぐの、大きな石垣

きれいです

おそらく本丸入口の門の一部で、石垣の上には櫓か白壁があったのでしょう。

階段状になっていて、上がるのに便利~

休憩にも最適です

向かいは梅だったか桜だったか、お花見してる人たちが結構いました。

賑やかな女子高校生グループもいて、楽しそうでした。

良い思い出になるでしょうね

さて、天守台跡に向かいます。

天守台は2段構えになっていて・・・

 

まずは1段目に上がり

(1段目)

(1段目から2段目の向かって右端の角)

(同じくこのエッジがたまりません

そして1段目から2段目の広い天守台に上がりました。

こういう構造も、広島城と似ていたような気がします。

 どこでも遊べて良いですね

(2段目から見た1段目)

天守台から見た眺めは、やっぱりきれいでした

(極楽橋方面)

 

極楽橋の反対側も良い眺めでした。

山は、指月山といい、標高143メートル

山頂にも詰丸という籠城機能を持った山城がありました。

内堀は、ひとつは本丸の南側に沿うように真っ直ぐに流れており、もう一つは、天守閣を覆うように流れ、山の麓の部分で終わりになっています。

(というか、もう山の裏が日本海です

この石垣が最高でした

最高なので、近くに行ってみることにしました。

   ↑ この桜の木の横を通って、向かって左に進みます。

(これは天守台横の庭園:花茶江亭)

本丸内堀の最終部分 ↓

 こういうのも好き

(内堀最終部分から振り返って、天守台方面を望みます)

で、お気に入り石垣のところ

 

やっぱり楽しい石垣でしたが、敷地はただの原っぱでしたので、写真省略

道は、石垣づたいで良い

(進行方向から振り返ったところ・遊歩道)

さて、この道、来てみて良かった

なんと、先には毛利元就菩提寺の洞春寺跡と、おそらく奥さんの妙玖さんの菩提寺?の妙玖寺跡があるみたい

うれしいです。

幕末に政庁が移された山口市に洞春寺があるのは知っていましたが、萩でこのお寺に出会えるとは思いませんでしたウレシイ

 洞春寺の石垣

 今は建物はなくて原っぱ

 

1863年に山口に移された後、残された建物は1869年に山崩れで破壊されたそうです。

ちなみに、洞春寺はもともと安芸・吉田郡山に建立されたのち、萩に移り、山口へは長男・隆元の菩提寺を洞春寺と改名して、移されたそうです。

 こちらは妙玖寺跡

そのさきは、もう日本海・・・

ここまで来ると、ほのかに波の音も聞こえて、天守閣周辺の賑やかさが嘘のように、静まり返っていました。

 

 

わ~萩、見どころいっぱいで

萩城だけでも回りきれませんね。

もう、すっかり夕方ですもん。

妙玖寺跡からは、もう急ぎ足で駐車場に戻り・・・

 

今宵のお宿・萩本陣にチェックインして

宿ライフを楽しみました

お部屋からは市街一望

真っ暗だけど、松陰神社もすぐそこ。

(私らにしては)ちょっと高かったけど、選んだ甲斐がありました。

 

さあさあ、本当のお目当ては、夜が明けてからです

次回投稿を楽しみにしてくださいね

(他のんは見なくていいから、次のだけは見て~)

 

~ ~ ~  つ づ く  ~ ~ ~

 


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