日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

奈ー良の大仏っつあん

2007年12月12日 | Weblog
クリーム色の横長の紙に、墨で縦書きにされた。4行詩がどうして私の手元にあったのか。今もって分からない。

それはともかくとして、目に飛び込んできた奈良東大寺長老、清水公照師作の
「奈ー良の大仏っつあんー、心象五景]をひと目見たとき、これはいける、ものになる、と直感した。
案の定、いつもの調子ですらすらと出来上がった。詩の中にリズムがあり、テンポがあるからだ。

 猊下と尊称される天下の東大寺の大僧正という厳しい肩書とは裏腹に、なんとユーモラスな詩なんだろう。師の絵が、墨跡が、エッセイが引っ張りだこになる秘密がここにあるのだろう。まさに師そのものがそこに浮かび出ている。

おおらかさ。春風駘蕩ののびやかさ 、童心 なじみやすさ 、庶民性、それでいて博識で、威厳があり、人を引きつける。

「奈ー良の大仏っつあん」は 「奈良の大仏さん」ではなくて「 ナーラのだいぶっつあん」 である。

日本全国民から、特に関西人から敬愛を受けるこの大仏さんは「だいぶっつあん」 で親しまれ「大仏さん」ではかたぐるしい。

ナーラとなると、童べ唄を連想し、子供のイメージが強く、浮かび上がるが、子供一色ではなくて、「寂の影踏み肉(しし)盛り返す」という難句もあるところを見ると、やはり大人の童謡というべきだろう。

幸福感

2007年12月12日 | Weblog
幸福感に身が包まれているとき、祈りたいような気持ち。少なくとも抵抗なく手を合わせる気持ちになる。祈り。それは、感謝ありがとうである。
したがって、幸福感を味わいたいと、思うならば、ありがとう を連発すればよい。

幸せを感じるときとはどういう時だろうか。

幸せ感とは、満ち足りたときに、心も体も安らぎで、暖かく感じる。あのときのものであろう。

心が満たされ、口からは、ありがとうという言葉が自然に飛び出てくる。

さらに一歩つっこむと、感謝の気持ちが満ち溢れてきて、祈りたい気持ちになるときこそ 正に幸せを感じているときである。

それゆえに、幸せになろうと思えば、まず「ありがとう」ということだ。 ありがとう、ありがとうで、どんな小さいことにも感謝していると、それは

やがて祈りに変わり、さらには、身も心も暖まってくる。心が暖かく感じるようになればしめたものだ。それは幸せの真っただ中に入ることにほ

かならないからである。

ありがとう。それが祈りになり、そこから幸せ感が湧いてくる。

              新しい見方とは


新しい見方とは、あるものを時系列隠して、トレンドの中で、それを理解することではなかろうか。