日々雑感

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お盆

2010年08月13日 | Weblog
お盆

今日からお盆にはいった。お寺さんが両親の戒名を書いた卒塔婆の他に先祖代々と三界万霊と書いた大きめの卒塔婆をもってお参りにきてくれた。

ぼくは小さいときから、神仏とご縁があったのだろう。と言っても自分から手を合わせたり、お経を唱えたりするような自発的なことはなにもしなかった。
ただ祖母が法隆寺で毎年あがる大般若にいつも連れて行ってくれた記憶は今まで消えたことがない。法隆寺村出身の祖父は大阪に出て、年若くして巨万の財を残して死んだ。
戦死ではない。どこか体を病んで四十代でこの世を去っている。それは悪神がとりついて、金はやるが命はもらうとでも言う呪いがかかっていた罠にはまりこんだみたいに、今の僕には思える。

主人が四十代でなくなるということからすると 、後家になった祖母も子供達もまだ皆若かった。特に私の母は生まれたばかりで、父を失っているので、家庭には主人がいて主婦がいてと言ういう普通の家庭の味を全く知らないまま育っている。

ところが巨万の財産を残してくれたおかげで、嫁にくる前までは、生活には何不自由なく育った ようである。母の若い時の生活レベルがどんなものであったかは想像の域を出ないが、多分大層なものであったことだろう。

時は明治時代の話である。祖父は1910年に死んでいるから、そのときの社会情勢などから考えてみると、聖徳太子ゆかりの法隆寺も廃仏毀釈などの影響で困窮甚だしく、寺を売りに出したそうである。その価格が当時の金で二百三十万円だったと祖母から聞いた記憶がある。
その時代に祖父は寺に幾ばくかの金を寄進したらしい。はっきり金額がわかるのは、境内に立っている顕彰碑のうらに五百円と刻んであるから、多分それ以上であることは確実である。困窮した寺にとっては一千円台の金でもありがたかったのであろう。戦前までは毎年我が家のために、法隆寺は大般若を上げて謝意を示し、境内に顕彰碑まで建立してくれたのだ。

物心ついたときに、祖母は私を連れて法隆寺に参り大般若を上げてもらって帰ってくるのが、戦前の習わしであった。大般若があがると言うことは何を意味するのか、小学校にも上がっていない私に理解など出来るはずはなかったが、大勢の坊さんが 経本を開いたり閉じたり、また立ったり座ったりすることだけは覚えている。
帰り道、祖母は私に言ったのが、お盆のことである。
お盆には遠くに行った、祖父が夜になると帰ってくるから、家を間違わないように、わかりやすくするために、迎え火をする事を欠かしてはいけないと言うことであった 。
しかし例年欠かさず迎え火をするという習慣は祖母の死とともに忘れ去られた。

祖母が亡くなって30年近くたった ある日、大和路線にある法隆寺駅を通過して祖母とお参りしたことを急に思い出した。大般若のこと、お盆のこと、迎え火送り火のこと。なども走馬燈の巡るような感じで思いだした。それ以後今日に至るまで迎え火送り火は欠かしたことがない。送り火の日はお供えしたものを餓鬼に供養するために河に流す習わしになっている 。
今頃そんなことをする家は皆無で、大都会では河川で供養する人など見かけたこともない。それでもローソクを一本点し、川の流れにお供物をのせて見送る風情は我ながらいいものだと思う。また来年も帰ってきてねと心の中で話しかけながら、口では念仏を唱える。それで盆が終わる。
さあ今からご飯を食べて、迎え火をしようか。