今日の新聞を見ると、ビクターの希望退職が、500人の予定者に対して、750人が応募したという。
かの有名なレコード会社、ビクターの凋落は、目を覆うばかりである。
なぜ今日のようなレコード会社におちぶれたのか、
答えは簡単に言うならば、自ら努力せず、安易に下請けに、仕事を出し、
その結果、軒下を貸して、母屋をつぶされたのである。
創作家、作曲家や作詞家や歌手を自前で、育てるのではなくて、
それらは、プロダクションという下請会社に、にゆだねて、ピンハネする事ばかりに、終始した。
結局残ったのは、ブランド名と、せんべい屋のごとく、レコードをプレスしたり、CDを描いたり、することだけが、メインの仕事になってしまった。
このように、自助努力無しに、他人のふんどしで相撲を取るような考え方が、いつまでも通用するはずはない、
ビクターのみならず、レコード会社はほとんど力を失って、どこかの会社の傘下に入るようになってしまった。
考えてみれば当然の結果である。何事においても社会的役割を果たさずして、従来通りの考え方で金もうけをしようというところに、大きな無理がある。
これと似たような現象が、お寺にも起こっている。
仏教本来の生きている人間の救済にかかわらず、伝統の上にあぐらをかいて、葬式や、法事が主たる仕事で、これらは檀家制度に、支えられていた。
ところが、昨今の社会情勢は、少子高齢化が進み、その基盤としたコミュニティーそのものが、崩壊しかけている。
そのことが全然頭にないわけだ。
つまり、社会的役割を果たそうという努力が、欠如している。そんなことで、お寺の経営が成り立つはずがない。
今では、宗教心が薄れ、宗教離れがかなりのスピードで進んでいる。それに対して対応が全くできていない。
社会的役割を果たさないものが、この世に存在して行けるわけがない。全国に7万戸あるといわれるお寺は、ますます窮地に追い込まれていくであろう。
お寺は、単に葬式や法事のみを行うことによって、霊園や石材店に、そのお顔を奪われてしまった。
、人心がお寺から離れているにもかかわらず、何も手を打たなかった結果である。つまり、自助努力がたりなかったので、こうなったのである。
お寺といえども、一つの経営体である限り、経営努力が必要である。つまり社会的ニーズに、お寺なりに応えていくという役割を果たさなければならない。
余談だが、全国に7万戸あるお寺を活用して、社会教育の場にすることが、できないだろうか。
このまま廃寺になっていくことは、惜しい気がする。
レコード会社やお寺を例にとったが、どんな企業でも、経営体である限り、社会的要求にこたえていかないと、
存在することは難しい。当たり前の話である。