日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

自灯明

2009年09月15日 | Weblog
自灯明

雲霞のように押し寄せてくる、苦しみのるつぼの中にいて、その苦しみをいかに切り払うか 。

そのためには苦しみや悩みを、笑い飛ばすこともできるユーモアと発想の転換を持って、何事も深刻に考えたり、受け止めたりしないことである。

聖書にもあるように、今日のことは今日考えるがよい。明日を思って思い煩う事なかれ。華厳経にも人生の美しさや喜びを賛嘆している。人生は苦ダと言っても、その中には人生を楽しむ方法も説かれている。

自分を傷つけたり痛めつけたりして、一体何になるというのだ

お釈迦様も法句経の中で、この世で自分ほど頼りになるものはない。自分以外に何を頼りにするのか( 自灯明) と説いている
悲観論者である僕は、 今日は自分にそう言い聞かせた。

共生は難しい

2009年09月14日 | Weblog
共生は難しい


同じ人間のなかでもは、とりわけ男性女性のなかでさえも、生理的に全然受け付けない人がいる。生理面だけではなくて、価値観や、思想や宗教や人生観など全く受け入れることのできない人間がいる。

こういう人たちと話をしていると話がかみ合わないだけでなく、砂をかむような思いが残る。いやな気分に包まれるだけでなく、自分の内なる抒情性も失うことになる。多分相手もそう言う想いをしていることだろう。

好きや嫌いは顔やスタイルだけではない。人間性そのものが、合わない人は徹底的に受け入れることができない。

そういう人たちと共生するということは、不可能に近いわけだが、でも共生しなければ生きていけないという現実がある。

共生ということは簡単だがそれではそれを実行してという段になると途端に難しくなるが、人間はすべてこういう問題を抱えているのだ。

では人間と下級の動植物との間の共生はとうか。爬虫類とりわけ蛇と共生するというのは、考えただけでもぞっとする。蛇ワニやトカゲをペットにする人がいるが、私には到底こういうことはできない。

だから言葉の上の共生はあり得でも、自分の受け入れがたいものとの共生は実行不可能のように私には思える。
たとえそれが皆命をもった生き物であったとしても。共生とはこういう困難を含んでいる。
胸には慈悲共生と言う文字を刻みながら。
現実的には何時もそう思う。
最近のウオール街の動き。またぞろ拝金主義のどん欲が復活しそうな感じである。金融危機の名の下にこれほど世界経済に迷惑を掛けたのだから、自己規制するのは当たり前。それが人間の良心であり、共生の基本だと思ったいたが、あの悪夢のような拝金主義がまた復活しそうな気配だという。私はこういう価値観を持った人間とはどうしても共生は出来ない。突き詰めて言うと、彼らの落ち着く先は悲惨な戦争しかないだろう。

漢字の用法

2009年09月13日 | Weblog
漢字の用法

漢字の用法は分かるが、書く場合どんな漢字を書けばよいのか近ごろ分からなくなった。ワープロを使うようになって字を書かないから、うろ覚えになってしまったり、記憶がぼやけてらりしてきた。
漢字がペンでは書けない。困ったことだ。

漢字は体で覚えるところもあるから、コンピュター画面に表示された漢字の中から、適語を選ぶワープロ方式だと指先で覚えるという作業は無い。その結果として
コンピューターを使う時代の流れと共に、老化現象と輻輳して、僕の場合、最近特に漢字を書けない傾向が著しい。

文章は手書きすれば手の上に文章が載ってくると昔の人はいったが、それが正しい漢字の使い方だと思う。便利だけどワープロも善し悪しだ。

娘達が子育てをする時代になった

2009年09月12日 | Weblog

娘達が子育てをする時代になった。

子供のときは家中の一員として、子育ての渦の中に巻き込まれ、じっくり観察することはできなかったが、今は客観的に観察できる。
出産して子育てをするということは、正しく24時間勤務でかなりの自己犠牲を強いられることである。これには母性本能が働くから、思うほどつらくないのかもしれないが、大変なことである。こういう一連の付き合いがあるから、危急存亡の瀬戸際に立たされたとき時は母を思い起こしたり、名前を呼んだりするわけだ。
それでも場合によっては、幼少期に母と別れる子供もいる。子供と別れる母もいる。これは母子ともに不幸なことである。皆健康で平和な家庭が人間にとって必要な理由がここにある.
自分が渦中にいるときは、出たとこ勝負で子育てに夢中で、娘が子育てをするのを、ながめるように客観的に見ることはできなかった。従ってヒステリックに子供を叱りつけている母親を見ると「お前の教育、しつけの仕方が悪い。ヒステリックに叱ってみたところで子供の教育やしつけにはなんの役にも立たない。もっと冷静になってしつけをしなくては」と注意したら
「何言ってるの。私が子供の時にどんな事をして育てたの?怒鳴ってばかりじゃないの。ビデオが何よりの証拠だ、からもう一度見直したら?」。
ビデオを見たらその通りで、よく怒鳴っている。子供を育てると言うのはある意味で怒鳴る(感情爆発)ことかと、自分の子育てを反省した。それにしても人間というのは自分の事は判らないが他人のことはよく見えるものである。          

台湾一周

2009年09月11日 | Weblog
台湾一周

もう4.5年も昔になるか、1週間かけて台湾の全島を一周したことがある。花連からソオウまでバスでいった。バス道は断崖絶壁を切り開いて作られている。右手は200mの絶壁。下は太平洋の波が洗う。左手は高い山の頂。道路には大きな岩が転がり落ちていた。落石注意の標識はたっているけれども、あの岩が落ちてきてバスを直撃すれば乗客の命はひとたまりもない。ただの落石のないことを祈る以外には助かりようがない。この状況の中で私は神の力を見た。

1400兆円の借金8-1

2009年09月10日 | Weblog
1400兆円の借金

政府は正式には発表しないが、日本国の借金の大きさは世界に類をみないということだ。

ということは歴史上、かって人類が経験したことがないことを、我々日本人は無自覚の上にあぐらをかいて暮らしているということになる。

これは真面目に考えたら、そら恐ろしいことである。意味不明の不安が巻き起こってこないだろうか。

戦後の日本はウサギ小屋に住む、働きバチと世界から揶揄されながらも、多大の企業収益を永年続けることによって所得は倍増。日本国民は1億総中流意識に彩られて気前よく、世界に金をばらまいてきた。

そのあげく、蓋を開けてみれば、国の借金が1400兆円。年間の国家予算の約30倍の借金がつけとして残ったという現実がある。


無明の闇の中を手探りで生きている人間の現実は一寸先が闇だから、膨大な借金があろうがなかろうが、気にすることは無いと割り切るのも一つの方法だ。しかし、真面目に子孫のコトを考えると、この膨大な金額の前には、なすすべなく、茫然自失で、とてもあすへの希望を持てるものではない。

行く末はアメリカか、中国の軍門に下がって属国的搾取を受けるハメになると思うのだが。これを杞憂として切り捨ててよいものかどうか。

この国のリーダー、政治家も官僚も国をミスリードした責任は大きい。
だのに今回の選挙で自民党は「責任力」を主張した。どうせ国民は馬鹿だから1400兆円の借金のことなんか、知らないだろうからとタカをくくったか、それとも、そう言うことは一切忘れて「責任力」と無責任な事を言ったのか。民主党には責任力が無く、責任力のあるのは自民党といって無責任な「責任力」を唱えたのか。

が、いずれにせよ戦後60年余りのうちにこの借金を作った責任は自民党だったことに間違いはない。国民が目覚めれば自民党の大敗は当然の帰結である。

政治は三流だが、官僚は一流などと言われたが、官僚も世界的視野から見ると、三流に違いない。
彼らがばか集団呼ばわりされるのも当然である。結果を見れば誰でも分かる話だ。そうとしか思えない。


今日の歌は一体ありあんなんだ8-3

2009年09月09日 | Weblog
今日の歌は一体ありあ


とにかく詞がめちゃくちゃである。およそ詩情をなんて感じられない。たんなる言葉の羅列にすぎないというよりも、羅列にもなっていない。

従って人の心に届かないのはもちろんのこと感動を与えることもない。

加えてメロディーだ。ほのぼのとする美しいメロディーは消えうせた。リズムとサウンドだけ、それに加えて珍妙な衣装で目をごまかし、けったいな振りをつけて歌のまずさを歌以外のもので補をうとする。歌はエネルギー発散の仕掛けがあればよいので、歌にそれ以外を求めるのはお門違いである。

もっとまじめな歌を求めないとこんな歌の世界に浸っていては地獄へ落ちる。
んなんだ。

こんなことってありませんか

2009年09月08日 | Weblog
こんなことってありますか。


自信喪失でもない。もちろん、謙遜していうわけでもない。

あることが起こって、それを完遂するまでは、何も思わなかったのに、すんだあとで振り返ってみると、よくもまああんなことをやり遂げたものだと我ながら呆れることってありませんか。

それをやり遂げたということは、そのことに夢中で、そのことを行っているときは一心不乱。何も考えないから、事の重大さを斟酌する余裕がない。

したがって無分別に、身の程知らずのことを実行するのでしょうが。

それでもそれを成し遂げたと言うのは、自覚がないものの、自分の心の奥深くに、やりこなす力があったと、いうことでしょうか。

自分のしていることで、自覚や計算なしに、できたことということは、イチローが、WBCで、韓国チームを破ったときに、彼は、「神様が降りてきた。」と言いましたが、それと同様に、

自分の所業の未開部分を神様の降臨が、あったということで、解決策をみい出しても良いのでしょうか。

時として人は無自覚の内に驚くべき事をやってのける能力がある。それは事後になって判ってくる
こんなことって経験在りませんか。


自信喪失でもない。もちろん、謙遜していうわけでもない。

あることが起こって、それを完遂するまでは、何も思わなかったのに、すんだあとで振り返ってみると、よくもまああんなことをやり遂げたものだと我ながら呆れることってありませんか。

それをやり遂げたということは、そのことに夢中で、そのことを行っているときは一心不乱。何も考えないから、事の重大さを斟酌する余裕がない。

したがって無分別に、身の程知らずのことを実行するのでしょうが。

それでもそれを成し遂げたと言うのは、自覚がないものの、自分の心の奥深くに、やりこなす力があったと、いうことでしょうか。

自分のしていることで、自覚や計算なしに、できたことということは、イチローが、WBCで、韓国チームを破ったときに、彼は、「神様が降りてきた。」と言いましたが、それと同様に、

自分の所業の未開部分を神様の降臨が、あったということで、解決策をみい出しても良いのでしょうか。

時として人は無自覚の内に驚くべき事をやってのける能力がある。それは事後になって判ってくる
こんなことって経験在りませんか

童謡

2009年09月07日 | Weblog
童謡
私の感覚で判断すると、以前うたわれていたような場、幼稚園では、価値の高い童謡が歌われなくなった。したがって、幼児は、芸術的童謡に、触れることがなくなった。
そして、それは無理もない話である。 近ごろの幼稚園の先生は、芸術的童謡、を知らないからである。加えて、先生自身に、音楽性がない。
そこで私は、ひとこと言いたい。
教師となって、いろんな子供の心に、音楽いう色を塗るのなら、何色が、この子の生涯にとって良いものか研究してほしい。
つまり、童謡の研究をしてほしい。そして自分が、芸術的な質の高さを持つ童謡と、流行歌、童謡との、差をはっきり認識して、価値の高い唄を会得して欲しい。


色紙

2009年09月05日 | Weblog
 打ち勝つことは、真の融和することだ。

 私の作業場には一枚の色紙の入った額がかっている。
もう、かれこれ40年以上も昔のことで、色も少しくすんで、真っ白だった色紙が灰色がかってきている。
この額こそが私が、家宝としているものである。いや、家宝というよりも、私の創作活動に大きな力を与える源となっているものである。

昭和は38年11月3日。文化の日に、私は音楽の師匠、山田耕作先生のお宅へうかがっていた。
当時、先生は原宿の駅前にあるマンションの7階に住んでおられた。

 ひとしきり、人生談議に花が咲いた後で、私はこういった。

「先生。ここまで生きてくるのに、とにかくいろいろありました。今までの私は困難が生じると、それに向かって、やあやあ声をあげながら、刀を振り回していたのですが、今ここに至って、くるものは何でも来い。全部、自分の胸の内に取り込んで、消化してやるぞ、という心境です」といった。

そしたら、先生はにっこりされて「色紙」とおっしゃった。
鳥の子紙に包まれた真っ白な色紙で、四周金縁の縁取りがしてある。
奥さんが持ってこられた色紙に先生は体の不自由をおして「打ち勝つことは真の融和することだ。耕筰」と先生らしい字で書かれ、中央に先生ご自身の似顔絵をすらすらと描かれた。
頭のほうはつるつるテンだが、鼻の下のちょび髭はちゃんと描かれている。
それは、山田先生一流のユーモアで、ほほえましい限りである。
さらにローマ字でがkocsakuとお書きになって、たぶんサインするときに使われるのだろうと思われた竹製の花押を押して、「武田喜明君 卒業を祝して」と書き加えてくださった。

 作曲家として私は有名であろうが、無名であろうが、この一枚の色紙によってどれほど勇気づけられ、自信を持つことができたことか。
このことを考える度に、この一枚の色紙がいつも私は子供にも、孫にも語り伝えたい、我が家の貴重な家宝であると思うのである。

別になんの意図もなく、私がふと、もらした心境を、先生は即座に受けとめられて、色紙の上に私のはなむけの言葉として贈ってくださったのだ。
大学を卒業するのは翌年の3月で、その前年のの11月3日・文化の日に、まさかはなむけの言葉をいただくとは、夢にも思わなかったが、今になってみると、本当にありがたい事である。卒業の半年も前に、卒業を祝してと書かれて、にっこり笑われた先生のユーモアが今でも思い出されて、私の心を和ませる。

 先生がなくなられてから、たった一度だけしか、お墓参りをしていないのが気にかかる。そのうちに大阪から車を飛ばしてでも、墓参するつもりである。
 その時はもちろん、私の作品の中で、自信作を先生にお目にかけて、聴いて頂くつもりである。

ピアノ伴奏で作ったソロ曲「延命十句観音経」 がいいか、それとも女声合唱曲「舎利礼文」がいいか。迷うところである。



アメリカにおけるクリスマスは

2009年09月04日 | Weblog
アメリカにおけるクリスマスは

日本人が想像する以上のものである。
彼らにとってクリスマスはどんな意味を持つのか
宗教心、挨拶、イベント、習俗、なにかの思い
飛行機の中で、ホテルで、ディズニーワールドで、会う人ごとにメリークリスマスが連発される   

ディズニーワールドはものすごい人出である。夜12時だというのに、いもの子を洗うような混雑だ。

全世界の人々、子供も大人も全ての人に楽しみを与え、夢を与えている。これを作った人は菩薩道を歩む人だ。

パレードを見るのに6時半から9時まで待った。大勢の人でこうして席を取っておかなければどうにも成らない。苦しいことの多い人の世で人々に喜びを与える商売ほどよい商売はない。  

ついでに思ったこと。

音楽、美術、絵画、彫刻、工芸などは言葉の壁を一瞬にして乗り越えて心を結びつける。芸術の持つ力は偉大である。

エチケットは世界共通である。基本原理はお互いに気持ちよく過ごすために
1. 相手に対して思いやりのある引き配りをする
2. 相手の気持ちを考える
3. 相手の立場に立って行動する
こういうことに思いをいたし行動すればお互いに気持ちよくつきあえる

金粉

2009年09月03日 | Weblog
金粉

僕の体によく金粉がくっついていることがある。
大きさは直径が0,5mm位だが、たまには2mm位の大きいのもある。
いつ頃からこんな現象が起き出したのか、記憶は定かでないが、
30年ほどまえから、金粉が体表にあわられるのに気がついた。
大抵は掌に出るが、足の太ももに出たり、顔にくっついていたり、
胸に出たり、場所は不定である。

ところで僕だけかと言うとそうでもない。話をしている相手にも現れることがある。その場合はたいていは僕が見つける。

浄土宗総本山・京都にある知恩院の御影堂で音楽法要をして、和順会館で食事をしたときは、コーラスをした女性全員に出た。全員に出たというのはこれ一回きりだけど、あのときはみんなが驚いた。

富山市にあるお寺では金粉は常時でている。境内に祀ってある水子地蔵の首にかけられた赤いよだれかけに、いくつもの金粉がくっついて、手でかき集められるくらいある。この寺には何回かいったが、いつも地蔵さんの赤いよだれかけには、ぴかぴか光っていた。

この地蔵さんはインドのデカン高原から掘り起こされた石で彫られたもので、境内には5〇〇体は越えるだろう。寺の世話役さんに金粉現象の不思議について尋ねたら、毎度のことで慣れているためか、特別の解説もなく、金粉現象がごく当たり前のように「よく出ますよ」という一言でかたづけられた。
僕は金粉が珍しくソレをかき集めて貰ってきたことがある。そのときこれらの金粉をどうすればよいのか聞いたら、掌に薄くなるくらい集めて、枕の下に敷いて寝たら、御利益があるそうな。僕は実行してみたが、特段御利益めいたものは感じなかった。

こういう現象はあらゆる人々に生じている現象なのだろうか。人はそれに気がつくか着かないかと言う問題だろうか
、それともこういう現象は特別な人にのみ起こる現象なのか。

我が身に起こる事ながら、それが何故なのか、金粉とは一体どんな化学物質なのか。知りたいような知りたくないような気持ちで毎日暮らしている。

感謝

2009年09月02日 | Weblog

感謝

人生の目的は幸福感に包まれて暮らすことである。幸福感とは過不足なく心が満たされている心がほのぼのとした情感に包まれることである。
この時の心理状態は満たされて、いうことがなく気なにものにも感謝したくなるような心境である。感謝とはありがたいと感じている時の心理である。
この世の中で一番ありがたいことは親の恩である。無私、献身、わが子の命を守り育てるために、親が払う自己犠牲はなによりも大きいものでありその愛があるからこそ今の我が存在しうるのである。子は親に、親はその親に、、、、とさかのぼっていくと神仏にぶち当たる。だから感謝の対象は直接的には親であるが、それが一般化されると神仏ということになる。
祈りー幸福―感謝―親、神仏。

今見ている花のように無心に

2009年09月01日 | Weblog
今見ている花のように無心に

汗をたらたら流しながら、僕はスリウオン通りのほうへあるいていった。市内のエアーポケットのような形で所々に美しい花が咲いている。赤とピンクを混ぜてそれをこくしたようなきれいな花である。勿論名前はしらない。ぼくはしばらく見惚れていた。
武満も死んだ。黛も逝った。あと50年もしないうちに我々世代は例外なくどこかに逝ってしまう。そいういう事を念頭において今を生きなければならないと痛切に感じた。今見ている花のように無心にしかも最高に輝かして生きることにこだわらなくては。花は教えてくれた。時の流れに流されて輝くのではなくて積極的に時の流れを活用して生きろと。生きてるのか、死んでるのか分からない生き方は命の無駄使いにすぎないと
心の中身が反映されて
作曲家の心の中身が作品になって反映される。低俗な欲望でも高級な欲望でも陰に陽に反映する
人格は気品の有無を表す。夢ほのぼのとした、夢をなくしたくらい心、心の平静さ、現実、
いろいろな心の状態が反映されて作品になる。
が、その際一番大切なのは気品だと思う