kebaneco日記

日々の出来事、考えたこと、行った場所、見たもの、なんかを記録してます

シマさんに寄せて

2008年02月27日 | 猫ら&家族
主人が命名した懐き真理→なつきまり→夏木マリはサバトラ猫さん。なのでよぉ~くみると似ている、うちのプリンスと。なんかむっちゃ愛着湧くなぁ~~。しかも雰囲気あるし。お顔の柄なんかほっかむりした昭和のお母さんって感じ、着物着て割烹着きて台所に立ってたりしそうな雰囲気で、哀愁漂ってます、マリさん。

もちろん野良猫と飼い猫という素性の違いが肉付きや毛並みの差として現れるし、年齢や性別も違うだろうから、違うっちゃぁ違うのだけど。でも、しっぽの丸め方なんか、我が家のプリンスのマロさんそっくりじゃぁ!

ってことは・・・マロは主人の言うところの「なつき陽介」なのかな?(←こじつけ)

ためしに「よ~すけ~」って呼んでみたけど「それって何?おいしいの?」って顔してました。なるほど、自分はよ~すけではなくマロだと認識はしているらしい(苦笑)

話は変って・・・

昨日と今日、先月末に18年連れ添ったアメリカンショートヘアの猫ちゃんに先立たれた人と仕事をした。六本木にペットのための火葬場があるそうで、そこでお骨になった猫ちゃん(名前はシマちゃん)をお家につれて帰った、「うちの子ピーク時は7キロ台だったから骨壷は「大」だったのよ」、なんていう会話をした。

後継猫をどうするか?は、猫の寿命が20年だとすると「最後の猫」になると思うので、いろいろ考えちゃうけど、あんまり猶予はないよね~って話になった。思い出すからアメショはやめる、でも大きい猫が好きなのでこんどはメイン・クーンにするかもしれないと言っていた。いろいろ、わかる気がする。

そこで話題になったのは「一体どうやって猫種を指定して子猫をもらってくるのか?」ということ。それぞまさしく私たちが長い間猫を飼えなかった理由のひとつ。私たちはペットショップでケージに入っている猫を買うという行為に激しく違和感を感じたから、猫を飼っている知り合いがいない=猫は来ない、だとばっかり思っていた。我が家にケバとマロが来たきっかけは遠縁のおじさんとの会話にさかのぼるのでここは詳細を割愛する。

飼ってみてさらに実感するけど、猫は「きまま」ではあるけどそれは「人の愛情や注目を欲しがっていない」ということとは違うのじゃ。好きなときに愛情を注いで欲しい、相手が自分をかまいたい時にその「好きなとき」が重なってなければ、かまってもらいたくないという「きまま」なだけだ。こうしてこのエントリーを書いている今、ひざの上はケバに独占されている。暖かいからいいんだけど(ってゆ~か、ケバさんはあたしの膝で暖を採ってるだけやねんけどね)、さっき、リビングのテーブルの上に置いてある携帯にメールが来たんだけど、立ち上がろうにもケバさんのお許しがでそうにない(苦笑)。っていう「きまま」なだけで、猫らは自分たちに注がれる愛情の量に満足することは決してないと思う。

だから生まれてまもなく親から離されケージに入れて買主を待たせるなんて、すごく残酷なことだ。自分がブリーダーだったら、自分の飼っている猫の子供がそんな目にあわされるなら、そういうお店を通じて売るなんて絶対したくないと思うはずなんだけどな。

そんなこんなで、とにかくそういうケージから「あたし、あっちよりこっちの猫がいい」なんて選ぶ自分が許せなかった。もちろん誰にも選んでもらえなかった猫らの将来が決して明るいものではないことは知っているけれど、そういう意味では捨て猫の里親になるのもペットショップで売られている猫を買うのも「命を救う」という意味では似てるのかもしれないけど、でもやっぱり、やだった。

その人も「ケージに入ってる猫を’これ頂くわ’っていうのは絶対イヤだ」と言っていて「そ~でしょ~~」と盛り上がった。やっぱりペットクリニックの先生にちゃんとしたブリーダーさんを紹介してもらうのがいいのではないか?という話をした。

生まれてきた猫を捨てるなんて最低だけど、「生ませて、売れるのは売って、売れないのは処分」なんてそれ以下だと思っている。在庫を抱えるみたいに犬や猫を常時店頭に置いているペットショップなるものには一日も早く日本からなくなって欲しい。きちんとしたブリーダーのところで「次に生まれた猫」を譲ってもらう約束をする形で、生まれた猫らが新しい飼い主のうちにもらわれていく(もちろんお金を払って)、そういうのが唯一のルートになればいいな~と思う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿