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エコピープルおじさんの思い出話「いにしえの平泉からの遺言」をミタ

2023-08-06 08:11:11 | 日記

【遺言その①】東日本大震災で認められた「万人平等の志」
・世界遺産として認められる価値基準に「顕著な普遍的意義を有する(出来事万人平等の志?)」とあります。
・しかし、世界遺産として認められるための「万人平等の志」を証明するものは皆無とのことでした。
・ところが、図らずも東日本大震災により、「もっとつらい人がいる」と言って、被災者が被災者を慮る(おもんばかる)姿に、
  世界中の人々が、その言動に心を打たれました。
・ユネスコも「この地には、かつて万人平等の理想国家が本当にあったのではないか」と気づかされ、平泉を世界遺産としたとの論考を載せているとのこと。
・「歴史街道2011年9月号(発行:PHP研究所)」の特集「平泉と奥州藤原氏(執筆:高橋克彦氏)」による論考において、
  「平泉の真価は、藤原氏が浄土思想に基づいて万人平等の国をつくろうとしたその志にこそある。」と論じています。
・また、平成23年7月3日「岩手県民を代表して岩手県知事達増拓也」とある論考には、
  「11世紀、東北では激しい戦乱があり、多くの命が犠牲となりました。奥州藤原氏の初代清衡公は、荒廃した国土を復興し、戦乱の無い平和な理想郷を実現するた
  めに、この地にこの世の浄土を創ろうとしました。こうして、平泉の文化遺産が築かれていきました。仏教の考え方に基づいて造られた平泉は、素晴らしい寺院や
  庭園を残すとともに、「あらゆる生命を尊び共に生きるという理念を私たちに伝えています。」私たちは、平泉の理念を胸に、東北の災害からの復興に取り組みま
  す。そして、平泉の文化遺産を、将来にわたって守り伝えていくことを誓います。」とあります。

・3年前には、世界遺産として登録を見送られた時に認められなかった「万人平等の志」
・今回の震災に於いて「あらゆる生命を尊び共に生きるという理念」を私たちに伝えた被災者の言動。
・それにより「万人平等の志」が評価され、世界遺産登録の要素のひとつになっていると推察できます。
・チョットいい話ではありませんか・・・。

【遺言その②】奥州藤原氏の転機「戦うべきか?戦わざるべきか?」それが問題だ!
・1187年臨終にあたり秀衡は「源義経を大将とし、息子たちの力を合わせて源頼朝と戦いなさい」と遺言。
・しかしこの遺言は、実行に移されることはありませんでした。
・1189年4月四代目泰衡は、頼朝の圧力に屈し、義経を自害に追い込んでいます。
・さらに6月には、義経と懇意だった弟である忠衡をも殺害しました。
・これらの状況を見て頼朝は、鎌倉を発し、鎌倉の大軍は8月には平泉に到達し、翌月、奥州藤原氏滅亡。
・平泉は、藤原氏という庇護者を失ったことから、少しずつ衰退していきました。
・1226年の毛越寺の円隆寺、1337年の中尊寺主要堂塔と徐々に消失し、建物の多くは灰になり遺跡化。
・しかし平泉の人々は、誇りを持ち続け、遺跡を良好な状態で現在まで守ってきました。
・さらに舞などの芸能もよく伝えられ、平泉の文化遺産は、栄華の痕跡のみならず現代にも息づいている。
・17万騎と称されている藤原秀衡時代の藤原氏の日本最強騎馬軍団は、源頼朝から見れば脅威であったようです。
・それゆえに、源平合戦の折も鎌倉での藤原氏への備えには万全を期したと言われています。
・頼朝は、その脅威の奥州藤原氏を、はじめから滅ぼす機会を見計らっていたのではないでしょうか?
・秀衡はそれを見透かし、実践経験豊かな義経を総大将とした戦いを考えていたようです。
・しかし、息子にはその思いは伝わらず、源平合戦に勝利し、勢力を拡大してきた頼朝は・・・。
・政略を重ね軍勢を整え、腕はたつが実戦経験が無く戦略を持たない藤原軍を滅ぼすのは、容易なことだったようです。
・外交交渉により約100年の平和と繁栄を築いたユートピアは、野心を持った独りの戦略家の前に滅びてしまいました。
・平和を守るということの難しさと、具体的に何をすればよいのか、考えさせられる歴史のひと幕ではないでしょうか?
・「戦うべきか?戦わざるべきか?」それが問題だ・・・。

2023年8月6日 by エコピープルおじさん
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