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人も社会も、成長と負荷を切り離して、落としどころを考える。

エコピープルおじさんの思い出話「広岡浅子(朝ドラでは白岡あさ)の歴史的混とん状態」をミタ

2023-11-21 09:49:12 | 日記

・もう、8年も前の思い出話になりますが・・・。
・NHK朝ドラ「あさが来た」を見て、原作「小説・土佐堀川(作:古川知映子)」を読み・・・そして疑問!
・ドラマで「あさ」が懐にピストルを持って、潤野炭鉱(ドラマでは加納炭鉱)に乗り込んだ話は本当か?
・歴史的事実を知りたくて、筑豊本線笹栗線新飯塚駅から飯塚市歴史資料館に向かいました。

・ドラマでは五代友厚(大阪商工会議所創設者)が、「あさ」が潤野炭鉱に乗り込む前にピストルを渡します。
・原作「小説・土佐堀川」では、浅子の実家「加島屋」の家宝と記されており、五代友厚とは関係が無い。
・広岡浅子が執筆した文献(史実の一つ)には、このピストル事件の話は無い。
・飯塚市歴史資料館の保管資料には、このピストル事件の話の記載はあるが・・・
・洋装の「ごりょうはん」が、ピストルを懐にやって来た!・・・とだけ「言い伝え」として存在するのみ。
・ちなみに「ごりょうはん」とは、西日本で使われる言葉で「未亡人」の意味なので一致しない。
・「五代と浅子」は、朝ドラでは友達のように描かれており、ピストル事件は、そのドラマ性の演出か?
・調べた限りドラマのような個人的接点は二人に無く、「浅子」にとって五代は雲の上の人だったようである。
・1866年(明治19年)に浅子(当時37歳)が潤野炭鉱を買収した前年に、五代友厚は49歳で他界している。
・ちなみにイケメンではあるが、ドラマで五代を独身のように扱っているが、実は2度の結婚歴がある。

・もう一人、筑豊炭田の歴史で気になるのが、浅子と同時代に筑豊炭田で成功した石炭王「伊藤伝右衛門」。
・朝ドラ「花子とアン」のモデル「赤毛のアン」の翻訳者「村岡花子」の親友「柳原白蓮」を後妻にした男。
・24歳の年の差があり、白蓮の兄の選挙資金目当ての政略結婚と騒がれたようである。
・飯塚市歴史資料館で聞いた話では、伊藤伝右衛門は地元の人間なので、記録があるが・・・。
・浅子はよそ者なので、ピストル事件を含めて、なんの記録もないとの事。
・ついでに「柳原白蓮」の親友である「村岡花子」は、後の浅子の「御殿場での夏季勉強会」における師弟関係でもある。

・最後に、どうしても気になる「潤野炭坑での落盤事件」の話は本当か?
・結論、朝ドラも原作も落盤事件の内容は異なるが、いずれも創作話。
・朝ドラでは、加野屋に恨みを持つサトシが仕組んだ爆発事件としている。
・原作では、三井家の落ちこぼれの叔父「三井高長」が、三井家と加島屋を妬み、仲間と事故を仕組む。
・史実を見るに、浅子が炭鉱を買収した当時、休業を余儀なくされる産炭量の低迷期であったようである。
・設備不足から相次ぐ小規模落盤事故に見舞われ、かつ、坑道に大きな断層が立ちはだかり採炭が進まない状況があったようである。
・断層の話は、以前、広岡浅子が創設した大同生命の展示会ビデオでも紹介されていた。
・しかし、史実に残る潤野炭坑の大きな落盤事故は、浅子が炭鉱を売却した後の話(次の2つ)である。
 (1)1903年(明治36年)ガス爆発事故、死者・行方不明者64人
 (2)1913年(大正2年)粉塵爆発事故、死者・行方不明者101人

・広岡浅子の歴史と逸話は、日本女子大学創設の話を始め、まだまだありますが、次の機会に・・・。
・それにしても、調べるほどに、広岡浅子という女性の偉大さというか、凄さを感じてきます。
・広岡浅子の歴史を見るに、男とか女とかの性別は関係なく、「才能と志と人脈」だということが理解できます。

2023年11月21日 by エコピープルおじさん
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エコピープルおじさんの思い出話「新幹線で無くなった車内販売、観光列車では、まだまだあるかも?」

2023-11-19 09:28:28 | 日記

◇新幹線で、車内販売のアテンダントが入れてくれる熱々コーヒーが飲めなくなったのは残念です。
◇スジャータのカチンカチン・アイスも!・・・食べるまでの「お預け時間」が、長いんだよねぇ~・・・。
◇コーヒーを飲むだけではなく、アテンダントとの何気ないコミュニケーションは、旅の楽しみですよね!
◇では、地方にある観光列車ではどうなのだろうか?・・・確認してないけど、昔話を少々・・・。
◇豪華な観光特急ではなく、もう一度乗りたくなるリーズナブルな観光列車に乗りたいと思いませんか?
◇そんな観光列車の思い出話で、写真の記録があるものを、少々、綴ってみたいと思います。

◇その①:JR東日本の「リゾートビューふるさと」:長野と南小谷を結んでいます。
 ・日本の棚田100選の一つ「千曲市八幡姨捨」では、沿線の姨捨駅からその絶景を眺望できます。
 ・姨捨駅は、快速・普通列車の場合、スイッチバック式の路線になっていますので、のんびり工程です。
 ・従って「リゾートビューふるさと」は、姨捨駅で、少々停車時間を設定しています。
 ・ナイトビュー・プランの場合は、駅・待合室でのコンサートもあります。
 ・勿論、棚田を背景の記念写真も、アテンダントの方がシャッターを押してくれますよ!
 ・夏季、アテンダントの方は「山ガール」の服装で、「北アルプスに行きます!」という雰囲気作りです。
 ・勿論、熱々コーヒーのオーダーができ、ナイトビュープランを含めて、4回位乗っているかも???

◇その②:しなの鉄道「ろくもん」:長野と軽井沢を結んでいます。
 ・整備新幹線が通る前は、信越本線だったようですが、今は第三セクターになっています。
 ・整備新幹線と引き換えに在来線を第三セクターとする話は、詳しい事をご存知の方にお任せして・・・。
 ・原則、レストラン列車のようですが、私は「乗るだけぇ~・・・」にしました。
 ・途中駅で下車し、小旗を掲げて「はとバス」みたいにアテンダントの方が観光案内をしてくれます。
 ・食事は注文しませんでしたが、熱々コーヒーを注文し、アテンダントの方に運んでいただきました。

◇その③:JR西日本の「ラ・マル・ド・ボア」:この時は、コロナ禍の最中でしたが、日生から岡山へ!
 ・快速なのですが、グリーン車指定席なので「青春18きっぷ」では乗れません(乗車券が別途必要)。
 ・観光ガイドは女性の車掌さん二人の担当で、喫茶・お土産担当のアテンダントが乗車しています。
 ・何となく、新幹線と同じ役割分担って感じ・・・この時は、ケーキ付のコーヒーをオーダーしました。
 ・コロナ禍ということもあり、車内はガラガラで・・・アテンダントとのコミュケーションタイム???
 ・停車駅で「写真を撮らせて!」とお願いしたら、垂れ幕を出して「またお越しください」だって???
 ・特徴的なのは、自転車の持ち込みができるので、サイクリストには便利ですね!

◇その④:京都丹後鉄道「あかまつ号」:天橋立と西舞鶴を結んでいます。
 ・豪華なレストラン列車の「くろまつ号」は遠慮して、喫茶だけの「あかまつ号」に乗車しました。
 ・第三セクター路線なので「青春18きっぷ」では乗れませんが・・・。
 ・今までお会いした各社のアテンダントの方々の中で、「あかまつ号」の方が一番フレンドリーでした。
 ・何となくコーヒーを頼みたくなりますし、車内販売のお土産も買ってしまいます。

2023年11月19日 by エコピープルおじさん
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エコピープルおじさんの思い出話「北新地の歴史を調べて外せない話・曽根崎心中」

2023-11-16 09:17:23 | 日記

◇大阪駅からほど遠くはない処に、「お初天神」という、有名な神社があります。
◇大阪の人に「お初天神」はどこですか?・・・と聞けば、大抵の人は教えてくれます。
◇でも、「お初天神」という天神社は、大阪にはありません・・・本名は「露天神」と言います。
◇そこで「露天神」はどこですか?・・・と尋ねると、答えられる人は、それほど多くはありません。
◇北新地の歴史を調べていて、新地の外れのカフェでお茶した時、お店の女性(オーナー?)と世間話・・・。
◇「お初天神」という名の天神社が無いことに、目を丸くして驚いていました・・・。
◇そんな北新地の歴史を調べて知る、「お初天神」の歴史・・・というか、お初・徳兵衛の物語・・・。
◇そこには、近松門左衛門の「曽根崎心中」の逸話は、外せませんよね!
◇そこで「曽根崎心中」の話を、チョット追ってみましょう!・・・うむっ?・・・出典の記録がない!
◇ごめんなさい!

◇時は1703年(元禄16年)早朝に、堂島新地の天満屋の遊女「お初」と内本町醤油商平野屋の手代「徳兵衛」が露天神(お初天神)の森で情死します。
◇この心中事件を近松門左衛門が脚色し、同年5月に人形浄瑠璃「曽根崎心中」として道頓堀の竹本座で初演し、「心中もの」ブームを引き起こしていきます。
◇当時、歴史ものを扱うのが当たり前の人形浄瑠璃の世界に、心中ものという俗世の事件を脚色する「お涙ちょうだい劇」の新風が、この時に巻き起ったようです。
◇その張本人は、後に「東洋のシェークスピア」と称された、当時は無名に近い「近松門左衛門」で、一躍、時の人となってゆくのです。
◇逸話では、近松門左衛門は、京都でこの心中事件を知り、船で大阪に向かう船中で、この心中事件を脚色し、「曽根崎心中」を、一日で書き上げたとの逸話が残されています・・・知らんけどぉ~???
◇この心中事件により「露天神」は、言うまでもなく、別名「お初天神」と言われるようになるのです。
◇そして、「曽根崎心中」「恋飛脚大和往来」「心中天網島」という浄瑠璃作品は、東洋のシェークスピアと称される近松の三大心中ものと云われるようになっていくのです・・・。

◇話を戻し、心中を決意したお初・徳兵衛は梅田橋を「かささぎ橋」に見立て、冥土の道行の最初に渡りました。
◇当時梅田橋は梅田墓への通路となっていて、曽根崎川(蜆川)でいちばん初めに架けられた橋のようです。
◇お初がいた遊女屋の「天満屋」はこの近くにあり、当時、梅田橋界隈(四橋筋より西側)は新地で最もにぎわっていた場所のようでした。
◇梅田橋は勿論、既に無く、現在は「梅田橋ビル」というビル名に僅かにその痕跡を残しているだけです。
◇現在の住所でいえば、「堂島3丁目」、堂島3の交差点からNTT堂島ビル付近に梅田橋があったようです。
◇この時代の曽根崎新地の中心は梅田橋周辺で、『心中天の網島』の小春と治兵衛の道行きがはじまる大和屋も、この梅田橋あたりにあったようです。
◇「名残の橋尽し」、死に場所を求めてさまよう2人は、梅田橋を渡り、桜橋、曽根崎橋、蜆橋・・・露天神の森へ・・・!
◇この二人の「来世に託す思い」が後世に伝わり、「恋人の聖地」として、今の「お初天神」人気を誘っているようです。
◇若いって、いいねっ!・・・

2023年11月16日 by エコピープルおじさん
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エコピープルおじさんの思い出話「北新地の歴史を調べて知る社用族の街・北新地のDNA」

2023-11-15 09:33:09 | 日記

◇大阪には、住居表示や地番にはない「北新地」という、夜の社交場として有名な地域があります。
◇住居表示で言えば、「曽根崎新地」、「堂島」、「堂島浜」のそれぞれ1丁目にあたります。
◇不思議には思いつつも、特に支障はなく、これまで気にかけたこともありませんでした。
◇以前、高度成長期に波に乗った「北新地」という地域の生い立ちを調べてみたことを思い出しました。

◇時は貞享年間(1684年~1687年)幕府の命を受け河村賢瑞が行った淀川本支流各所の改修工事に遡ります。
◇1685年(貞享2年)、曽根崎川(蜆川とも言う)を改修して砂洲である中洲(すなわち新地)を作り、町割りが行われ、堂島新地が誕生したようです。
◇薬師堂があった事から「堂がある島」という意味から、「堂島」と名付けられたようです。
◇現在の「堂島アバンザ」北西角あたりに、お堂と碑が建立されています。
◇その後、1697年(元禄10年)、堂島浜通りで米商人の自主取引を行う「堂島の米市」が発足しました。
◇その時、堂島川対岸の中之島に多数存在した、蔵屋敷の役人、米市の商人を相手に、堂島新地は遊所として栄えたようです。
◇大阪では珍しい武家の来客の多いところで、当時から、ミナミとは性格が異なる街だったようです。

◇その後、1708年(宝永5年)に、曽根崎川(蜆川)の北岸改修工事が成され、米市の急速な発展により、堂島新地がビジネス街化し、遊所は曽根崎新地に移行(北上)していき
 ます。
◇1730年(享保15年)には、堂島に米の取引所「堂島米会所」が開設され、世界初の整備された先物取引市場になり、商業地の堂島新地と、遊所の曽根崎新地とは、曽根崎
 川(蜆川)を境に、はっきり区分けされていき、1842年(天保13年)、曽根崎新地は、公許の遊所となり、発展していったようです。

◇時が過ぎ、1909年(明治42年)に「北の大火(天満焼け)」という事態を招きます。
◇そして、曽根崎川(蜆川)は、その焼け跡の瓦礫の捨て場となったのです。
◇1912年(明治45年)~1924年(大正13年)にかけて曽根崎川(蜆川)は埋め立てられ、現在の「北新地」の原型が出来上っていったようです。
◇北新地本通りは、曽根崎川(蜆川)の埋立地ですので、地盤が軟弱で、今でも高いビルはありません。
◇その痕跡を残す、曽根崎川(蜆川)の碑は今でもあり、曽根崎川(蜆川)の存在を示しています。

◇その後北新地は、戦火で街のほとんどが焼き尽くされ、戦後復興へと歩み始めてゆくことになります。
◇そして、1955年代(昭和30年代)の高度成長期に入り、バーやクラブが増加し、北新地が形成されていきます。
◇サラリーマンを辞め、もう何年も北新地に足を踏み入れていませんので、今の北新地の姿は知りません。
◇でも、元禄時代のお茶屋という游所から、昭和の時代の社用族の街へと変貌していった北新地。
◇その元禄時代からのビジネス街の遊所としてのDNAが、高度成長期の「北新地」に引き継がれている気がするのです・・・。

2023年11月15日 by エコピープルおじさん
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エコピープルおじさんの思い出話「なくなると寂しい、松山の坊っちゃん列車」

2023-11-13 09:13:31 | 日記

◇報道によりますと、今年(2023年)の11月から、松山の「坊っちゃん列車」が運行休止のようです。
◇もう、コロナ禍で大騒ぎした前の話になりますが・・・松山で坊っちゃん列車に乗りました。
◇路面電車をうまく計画して、富山市に負けないコンパクトシティーモデルではないかと思う松山市。
◇日常の路面電車に加えて路線を活用した非日常の観光列車を運行し、街の活性化に役立てているのです。

◇「坊っちゃん列車」は、蒸気機関車のような形をしていますが、ディーゼル機関車です。
◇路線は路面電車のものを使いますが、前後どちらにも走行できる路面電車とは異なる「坊っちゃん列車」。
◇運転手の免許も異なるとの事で、一人で運行できる路面電車と異なり、複数の人が必要です。
◇加えて、前後がはっきりしている「坊っちゃん列車」は、終点の場所で回転させる必要があります。
◇従業員の方の演出もあるのでしょうが、楽しそうに手を振って、観光客にその作業を見せていました。
◇勿論、観光列車としての定番メニュー「車内の観光案内」付ですので、従業員は大変!
◇旅の非常食として持っていた大阪のお菓子(バトンドール)を、お兄さん達にプレゼントしました。
◇採算が取れないのに頑張っているお兄さん達に、せめてもの感謝の気持ちです!

◇道後温泉駅で「坊っちゃん列車」を興味津々で見つめている親子(子供は隠れていて見えません)に遭遇!
◇話を聞けば、子供が「坊っちゃん列車」を見たくて、お母さんと毎日のように見に来るそうです。
◇「坊っちゃん列車」を見る子供の目が、輝いているのかわかります・・・いいね!
◇列車を回転させるから楽しそうに見に来るのであって、今後、展示だけでは、この子が可哀そう!

◇私が乗車した時、台湾の観光客8名と一緒でしたが、売り上げは、1,300円×9名=11,700円。
◇車掌役のお兄さんが、案内だけでなく、スマホのシャッター押しを手伝ったりして盛り上げていました。
◇行政からの助成金もあるようですが、これでは、採算取れないよね・・・悲しい!
◇継続運行をする為には、どうすればいいのか、何か「いい知恵」が欲しいところですね!・・・。
◇と、報道を聞いて、勝手に心配している、お節介なおじさんの思い出話でした・・・。

2023年11月13日 by エコピープルおじさん(一級建築士、エコ検定合格)
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