暮らす、生きる、繋がる、持続可能な未来

人も社会も、成長と負荷を切り離して、落としどころを考える。

エコピープルおじさんの思い出話「北新地の歴史を調べて知る社用族の街・北新地のDNA」

2023-11-15 09:33:09 | 日記

◇大阪には、住居表示や地番にはない「北新地」という、夜の社交場として有名な地域があります。
◇住居表示で言えば、「曽根崎新地」、「堂島」、「堂島浜」のそれぞれ1丁目にあたります。
◇不思議には思いつつも、特に支障はなく、これまで気にかけたこともありませんでした。
◇以前、高度成長期に波に乗った「北新地」という地域の生い立ちを調べてみたことを思い出しました。

◇時は貞享年間(1684年~1687年)幕府の命を受け河村賢瑞が行った淀川本支流各所の改修工事に遡ります。
◇1685年(貞享2年)、曽根崎川(蜆川とも言う)を改修して砂洲である中洲(すなわち新地)を作り、町割りが行われ、堂島新地が誕生したようです。
◇薬師堂があった事から「堂がある島」という意味から、「堂島」と名付けられたようです。
◇現在の「堂島アバンザ」北西角あたりに、お堂と碑が建立されています。
◇その後、1697年(元禄10年)、堂島浜通りで米商人の自主取引を行う「堂島の米市」が発足しました。
◇その時、堂島川対岸の中之島に多数存在した、蔵屋敷の役人、米市の商人を相手に、堂島新地は遊所として栄えたようです。
◇大阪では珍しい武家の来客の多いところで、当時から、ミナミとは性格が異なる街だったようです。

◇その後、1708年(宝永5年)に、曽根崎川(蜆川)の北岸改修工事が成され、米市の急速な発展により、堂島新地がビジネス街化し、遊所は曽根崎新地に移行(北上)していき
 ます。
◇1730年(享保15年)には、堂島に米の取引所「堂島米会所」が開設され、世界初の整備された先物取引市場になり、商業地の堂島新地と、遊所の曽根崎新地とは、曽根崎
 川(蜆川)を境に、はっきり区分けされていき、1842年(天保13年)、曽根崎新地は、公許の遊所となり、発展していったようです。

◇時が過ぎ、1909年(明治42年)に「北の大火(天満焼け)」という事態を招きます。
◇そして、曽根崎川(蜆川)は、その焼け跡の瓦礫の捨て場となったのです。
◇1912年(明治45年)~1924年(大正13年)にかけて曽根崎川(蜆川)は埋め立てられ、現在の「北新地」の原型が出来上っていったようです。
◇北新地本通りは、曽根崎川(蜆川)の埋立地ですので、地盤が軟弱で、今でも高いビルはありません。
◇その痕跡を残す、曽根崎川(蜆川)の碑は今でもあり、曽根崎川(蜆川)の存在を示しています。

◇その後北新地は、戦火で街のほとんどが焼き尽くされ、戦後復興へと歩み始めてゆくことになります。
◇そして、1955年代(昭和30年代)の高度成長期に入り、バーやクラブが増加し、北新地が形成されていきます。
◇サラリーマンを辞め、もう何年も北新地に足を踏み入れていませんので、今の北新地の姿は知りません。
◇でも、元禄時代のお茶屋という游所から、昭和の時代の社用族の街へと変貌していった北新地。
◇その元禄時代からのビジネス街の遊所としてのDNAが、高度成長期の「北新地」に引き継がれている気がするのです・・・。

2023年11月15日 by エコピープルおじさん
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする