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エコピープルおじさんの思い出話「北新地の歴史を調べて外せない話・曽根崎心中」

2023-11-16 09:17:23 | 日記

◇大阪駅からほど遠くはない処に、「お初天神」という、有名な神社があります。
◇大阪の人に「お初天神」はどこですか?・・・と聞けば、大抵の人は教えてくれます。
◇でも、「お初天神」という天神社は、大阪にはありません・・・本名は「露天神」と言います。
◇そこで「露天神」はどこですか?・・・と尋ねると、答えられる人は、それほど多くはありません。
◇北新地の歴史を調べていて、新地の外れのカフェでお茶した時、お店の女性(オーナー?)と世間話・・・。
◇「お初天神」という名の天神社が無いことに、目を丸くして驚いていました・・・。
◇そんな北新地の歴史を調べて知る、「お初天神」の歴史・・・というか、お初・徳兵衛の物語・・・。
◇そこには、近松門左衛門の「曽根崎心中」の逸話は、外せませんよね!
◇そこで「曽根崎心中」の話を、チョット追ってみましょう!・・・うむっ?・・・出典の記録がない!
◇ごめんなさい!

◇時は1703年(元禄16年)早朝に、堂島新地の天満屋の遊女「お初」と内本町醤油商平野屋の手代「徳兵衛」が露天神(お初天神)の森で情死します。
◇この心中事件を近松門左衛門が脚色し、同年5月に人形浄瑠璃「曽根崎心中」として道頓堀の竹本座で初演し、「心中もの」ブームを引き起こしていきます。
◇当時、歴史ものを扱うのが当たり前の人形浄瑠璃の世界に、心中ものという俗世の事件を脚色する「お涙ちょうだい劇」の新風が、この時に巻き起ったようです。
◇その張本人は、後に「東洋のシェークスピア」と称された、当時は無名に近い「近松門左衛門」で、一躍、時の人となってゆくのです。
◇逸話では、近松門左衛門は、京都でこの心中事件を知り、船で大阪に向かう船中で、この心中事件を脚色し、「曽根崎心中」を、一日で書き上げたとの逸話が残されています・・・知らんけどぉ~???
◇この心中事件により「露天神」は、言うまでもなく、別名「お初天神」と言われるようになるのです。
◇そして、「曽根崎心中」「恋飛脚大和往来」「心中天網島」という浄瑠璃作品は、東洋のシェークスピアと称される近松の三大心中ものと云われるようになっていくのです・・・。

◇話を戻し、心中を決意したお初・徳兵衛は梅田橋を「かささぎ橋」に見立て、冥土の道行の最初に渡りました。
◇当時梅田橋は梅田墓への通路となっていて、曽根崎川(蜆川)でいちばん初めに架けられた橋のようです。
◇お初がいた遊女屋の「天満屋」はこの近くにあり、当時、梅田橋界隈(四橋筋より西側)は新地で最もにぎわっていた場所のようでした。
◇梅田橋は勿論、既に無く、現在は「梅田橋ビル」というビル名に僅かにその痕跡を残しているだけです。
◇現在の住所でいえば、「堂島3丁目」、堂島3の交差点からNTT堂島ビル付近に梅田橋があったようです。
◇この時代の曽根崎新地の中心は梅田橋周辺で、『心中天の網島』の小春と治兵衛の道行きがはじまる大和屋も、この梅田橋あたりにあったようです。
◇「名残の橋尽し」、死に場所を求めてさまよう2人は、梅田橋を渡り、桜橋、曽根崎橋、蜆橋・・・露天神の森へ・・・!
◇この二人の「来世に託す思い」が後世に伝わり、「恋人の聖地」として、今の「お初天神」人気を誘っているようです。
◇若いって、いいねっ!・・・

2023年11月16日 by エコピープルおじさん
コメント
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