この前の日曜日に、家族でうどんを食べに行きました。
小学校の近所に、新しい讃岐うどん屋さんができたので、なんでも子供の話では
結構クラスのみんなが行っているとこの事。
そこで、我が家も食べに行くことに・・・・・
そこの讃岐うどん屋さんは、こうである。
入り口から入って、わかりやすい大きなメニューがある。
調理場を中心に客席がある、もちろん厨房は丸見えです。
うどんを練っているところ、切る所、だしが沸騰しているところ
讃岐うどん本場のイメージを一般人にも受け入れられやすいように、洗練されている。
多分、地元では屋台みたいな感じであろう(それはそれで、いいのだが・・・しかし、若い
olさんには入りずらいとか、家族連れには窮屈だとか、ある種その雰囲気では
食べたくない人は食べなくてもいいよ・・というスタイル)
しかし、これでは県外の人で讃岐うどんを食べてみようかなと言う人には市民権は得られない
そこで、そのシステムを変えないままでアレンジしている。
ネーミングもなんとか製麺となっている。
なるほど、製作所と似ている。
先日も、「今の若い人たちは車を欲しがらない」という事が、判明しjた。?
わたくし思うに、若い人たちは、モノが欲しいではないのであるような気がする。
そこで、「感」である。
それは、体感とかの感である。
かといって、その体感とは、直接的なものではなく、(この辺は直接的だとうっとうしい)
そのイメージを直ち自分の物差しに認識出来て、その気になれるというものではないかと思
います。
それは、例えば景色であったり、オーダーメイドであったり、普段は見えないものが見えたり
果たして、この辺の「感」が百貨店やスーパーで味わえるだろうか?(マグロのカイタイショーく
らいでしょうか?)
百貨店や、スーパーの店員さんは、昨今、「海の家」状態である。
目が売り上げで一杯である・・・(多分この辺は、お客さんとは敏感である)
スーパーとかでは、自分はお客さんという立場からの脱却はない。それ以上の「感」
はないのである。
しかしながら、カフェとかで景色がいいとか、温泉で天然の岩ごつごつしたところで
湯につかっているとつまり、お客さん以上の「感」がある。
それは、オーナー感とか、放浪の旅行雑誌記者感とか、ですね。
うどん屋さんには、そこには「感」があった。
自分がなんだか、お客さん以上の「感」があった。
これは、既存の腐食した鉄骨下地を撤去した
状態。
裏面には、ずれ止めゴム敷き。
溶接して下地を組みました。
築35年くらいではなかろうか思いますので
しっかり下地を溶接
まーーこれで下地はしっかりしたので
床材を新しいのに、変えれば
全然問題ないですね。
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