ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

姉の退院

2005-07-28 | 考えたこと
手術は 一応の成功をみたが
すべて今までどおりかどうかなんて、
誰にも わからない。

まして 姉には もうひとつ 病気がある。

手術してくれた医師は
そちらの 姉の 担当医だった。

義兄は とっさに 救急隊員に 
姉の主治医のいる病院へ、と告げたらしい。



手術の翌日
私は娘と一緒に家を出た。

娘は大学へ、
私は 常磐線からバスに乗り換えて
姉の病院へ向かう。

交代しながら付き添うと言って
家族が来ていた。

姪は 赤ん坊のいろいろな荷物を 夫の両親に預けて
我孫子(あびこ)で電車を乗り換え、
千葉県から 毎日 通うことにしていた。



亭主は
「お前の入院の時には
 お姉ちゃんにさんざんお世話になったんだから
 今度はおまえの番だから
 手伝えることがあったら 
 しっかりやってこい!」
と送り出されてきたが
義兄は 最近は 台所をあずかって
それなりに 家事をこなしていた。

私が教えた 玄米食を 用意していたのは 義兄だった。

「手は足りてるから。」
と断られてしまった。

疲労困憊している義兄のために
何がしかの役に立てるかと思っていたが
かえって邪魔かもしれない とも思い、
かえって私の体の心配をするかもしれない
とも思い、
甥っ子に 
それとなく 料理が出来るかどうかを 聞いてみた。

甥は 「まかせて」と言わんばかりの
自信に満ちた表情。

でもなー。

甥っ子よ。

そんな、パスタなんか、
毎日 毎日 日に三度も 食べられないんだよ。



私は あくまでも 自分を中心に考える。

自分の体の快適のために
週に一度 治療のための外出を  止めなかった。

空いた時間に 姉の病院に行ける日を 探す。

姉のために、何でもしたいという気持ちは 
あったけれど
甥や姪や 義兄が 毎日だれかしらいる病院には
さほど必要とは されていなかった。



ただ、姉に教わった爪もみを
手と足とに してあげた。

姉の足は 冷えていた。

しばらく やっていると、
暖かくなるのがわかった。

その翌日、
うつらうつらとしていた姉が
パッチリと目覚めたと 義兄から電話があった。

私は密かに、爪もみの 効果もあったと思っている。

それから 私は 自分のことと 仕事とで
忙しくなってしまい、
あまり 姉の病院へ 行けなくなってしまった。



ある日 
思わず「どうしたの?」と聞きそうになったくらい
素っ頓狂な声の義兄から 
電話があった。

「明日、退院するんだよ!」

よくなると 急にどんどんよくなった姉が
退院できるというけれど
私は 先日 車椅子の姉を見ていたので
にわかには 信じられなかった。

それにしても
義兄は とんでもない声を上げた。

嬉しさがあまると あんなふうな声がでるのか。

もう、一生、あの声で からかってやるんだ!



姉の退院。

2005年の2月のことだった。

姉の手術

2005-07-28 | 考えたこと
日曜の午後、
姉の手術は 始まった。



昨日 義兄が帰宅するのを待って 
お風呂に入った姉。

お風呂場から 小さく悲鳴が聞こえたと言う。

それでも 姉の意識は 薄れることはあっても
ずっと 意識不明の状態には なってはいないという。

姉は 私が行ってからも
手をベッドに縛り付けた紐を解こうとしたりして
ひっきりなしに 動いていた。

時々 眠たそうに うつらうつらしながら。



ずっと 意識があったからといって
それが どうしたというのだ。

父が脳梗塞で倒れた時だって
意識はずっとあった。

けれど なにか そのことが
姉の くも膜下出血が 軽いことの証しのようで
「きっと たいした事ない」と思い込もうとしていた。

その場の、みんなで。



手術は 実質2時間くらい、
その前後に けっこう時間をとる、と聞いた。

私は 早ければ5時、そうでなくても6時ごろには
終るだろうと 予想をつけた。

予想をはるかに過ぎて
みんなの心配と苛立ちがピークになったころ、
手術着の若い担当医が出てきた。

7時半くらいだった。



私は 姉が病室に戻るまでは ウロウロしていたが
私は 姉にとって 夫でも子供でもない。

家族がちゃんとついているので
娘を連れて帰宅することにした。

甥や姪の前で 妹(わたし)は威張り散らせない。

邪魔でもあるだろうと思ったし
娘は 翌日 大学へ行く。

真夜中になったけれど 帰宅した。

姪は 赤ん坊を 夫の両親に預けることになった。

姉の入院

2005-07-28 | 考えたこと
父が脳梗塞で倒れたのは 54歳の時だった。

義兄は もう 修行を終えて 家族とともに
実家にいた。

けれど 零細寺院のこと、
会社勤めをして 家族を養っていた。

父の仕事は 母と義兄と姉との三人で
分担して 同じようにこなせるように
頑張っていた。

姉は 父がやっていた 内職を手がけ始めた。

忙しいときもあるが 
収入として まとまったお金が入ると
大きな助けとなっていた。

その内職をするようになってから
姉は 血圧が高めになった。

まだ 30代だった。



同じ仕事をしている 他所の人も 
何人かが
脳血管障害で 重篤な事になったと聞いて
姉は内職を止めた。

けれど 血圧は変わらず高めだった。

そんなこんなが 姉の中で
見えない変化をもたらしていたのかもしれない。



2004年12月の日曜日の朝、
義兄から電話があった。

姉が 昨夜 くも膜下出血で倒れ、
きょう 手術をするから、と。

忙しい日曜だけど
息子もいるし
私は 娘と一緒に すぐに出かけた。



上野へ出て 常磐線に乗り換える。

病院へは 降りた駅から バスがでている。

実家へ帰るよりも ずっと便利で近い。

病院へ着くと エレベーターを降りてすぐのホールに
家族が揃っていた。

普段 なかなか帰ってこない 東京の長男に
京都の次男。

嫁に行った長女とその夫とは
彼女たちの結婚式以来だ。

生まれたての 姉の初孫に
この日 初めて 私は会った。

姪っ子から生まれたのに
その夫にそっくりな女の子だ。



姉は ナースセンターの隣の病室で
髪の毛を剃っているのだという。

不思議な興奮と にぎやかさと 不安と 絶望とが
みんなの周りを ぐるぐるまわっていた。

やがて 剃髪が終わり、
私は 姉のそばに行った。

バリカンで刈られた姉の頭は
驚くほど 亡くなった父に似ていた。

頭の形、髪の生え際のかたち。

それが こっけいで 可笑しくて
哀しかった。



姉、おひつじ座、B型。
50代の はじめ。