ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

『ラッキーマン』(1)

2005-07-19 | 読書
書店を逍遥する趣味のある人は
一時期 
顔の半分を手で隠すようにして
こちらを横目で見つめながら
はにかんだ笑顔の半分を見せている写真が表紙の
この本が並んでいるのを 
見たことがあると思う。

マイケル・J・フォックス。

映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で
大ブレイクした 
カナダ生まれの俳優。

ハリウッドの大スターの回顧録だ。



彼が 自ら パーキンソン病であることを
カミング・アウトした時には
世界中に ニュースで流れ、
私にもそれなりに興味を引かれた。

けれども それだけだったし、
忘れてしまっていた。

この本の存在を 知ったのは 
放射線に毎日通っていた時期に
いつもの食べ物屋の前の書店で
この笑顔を見ていたから。

そして 間もなく
姉が この本について 電話で語っていたから。

でも 私が読んだのは 文庫になってからだった。
(入江真佐子訳、SB文庫、
 ソフトバンク パブリッシング株式会社、
 2005.2.25、781円)



一時期、彼の人気は 想像し難いほどだった。

人は‘アイドル’とか ‘有名人’と呼ぶ。

彼自身は その頃の自分のことを
‘バブル・ボーイ’と読んでいる。

そして、ショービジネスの世界の中の有名人が住む
‘びっくりハウス’で迷子になった、と。



とんでもない贅沢もわがままも許される 
特別階級。

そんな‘びっくりハウス’には 
‘びっくりハウスのルール’というものがあって、
いつの間にか
それに慣らされてしまった彼を救ったのは
妻となったトレイシーだった。



トレイシーは この本で読んだ印象では
地味で 賢くて 芸能人というよりも
普通の感覚を持つ人。

マイケルは トレイシーのおかげで
びっくりハウスの幻想の世界を 冷静に見つめ、
現実の世界で 
地に足をつけて 生活していられるようになった。

そういう選択をしたから、
診断が下されたときに つぶされずにすんだ、
と彼は語る(p186)。

トレイシーはマイケルの病気、
若年性パーキンソン病に対しても
恐れたり ひるんだりすることも 
楽天的に見たり 放棄したりすることもなく
妻として 賢く対処している。



人気の絶頂期に発病した彼は
悩み、苦しみ、のた打ち回りながら
病気を隠し 闘病を隠して
スターであり続けた。

その間に経験し 考えに考えたいろいろな事は
かれの宝物だろう。

そして 支えてくれた 様々な人たちも。

この病気にならなかったら
彼は この10年間の 
心豊かな 深みのある人生は 送れなかった、
だから 彼は 
以前の自分には 決して戻りたいとは思わない。



マイケルは 自身の病気について

「いままでのつけが廻ってきたことを表している。

 仕返しなのだ。

 そんなことをしてもらう値打ちもない
 分不相応な宴会の後に、
 食べ散らかしたテーブルに持ってこられた
 請求書なのだ。」

と捉えている。



そして インタビューに答えて、
「この病気を 贈り物だと考えている。」
と答えて
同じ病気に苦しむ方から 批判された。

けれど 彼は 
もし それが 贈り物なら、
これからも 受け取りつづけなければならない
贈り物だ、と 訂正して
さらに

「最終的に
 ぼくに第二の道
 (被包囲心理でなく 旅に乗り出す道)
 をとらせることになったものが、
 勇気だったのか
 受容だったのか
 知恵だったのか なにかはわからないが、
 それは 明らかに 贈り物と呼べるものだった。

 そしてこの神経系の病気にならなければ、
 ぼくは この贈り物の包みを開けることは
 決してなかっただろうし、
 これほど 深く豊かな気持ちにも
 なれなかったはずだ。

 だから ぼくは 自分のことを
 幸運な男(ラッキーマン)だと思うのだ。」p8

と言っている。

そして これが本心から出た言葉であることが
読んでいると 確信できる。

彼は 本当に 幸運な男、ラッキーマンなのだ。



そう信じるに至るまでには
彼の心も 様々なところをさまよったし、
そう言えるようになるためには
いろいろな人の 手助けが必要だった。

けれど この困難な病気でさえ
人は 精神的には 克服する事ができるのだ。



精神的に 病を克服する。

これは 重要な事だ。

不治の病はあるけれど どうせ 人の命は
いつかは 終わるもの。

死亡率100%の人生をあゆんでいるのだ。

だから 心の中で 病を克服してしまえば
たとえ 人生の長さが どれほどであろうと
人生を全うしたと言えるのではないかと思う。

自分の不幸に心をとらわれたまま
生涯を閉じるなんて、
私は もったいない気がしてならない。

精一杯 生きたら
その人生は きっとキラキラと 光って見えるはず。

私はそう信じたい。



真面目な話や クサイ話は 
本当は嫌いだし苦手な私だが
この本は いろいろな事を考えさせてくれたので
ちょっと頑張って 
もう少し書いて見ようと思う。

三年目のゾラ

2005-07-18 | 乳がん
2004年12月、
私はひとつの決断を下した。

というほど 大げさなものでは ないのかもしれない。

けれど 普段
決心をつけるとか 決断を下す とかいうこととは
無縁の生活をしている私にとっては 
やはり 大きな決断だった。



どこにそんな記事があったのか。

私はどこかで
通常2年のゾラデックス注射を 3年にすることで
効果が上げられる、
と言うのを読んだ。

11月に 主治医の検査を受けた時
「ゾラデックスは 2年でいいでしょうか?」
と聞いてみた。

主治医は カルテをひっくり返して
「ん~。あなたの場合は。

 あー。リンパに行ってたんだね。

 そうね。

 3年やってもいいかもしれないね。」

とのことだった。



「どっちでもいい。

 ちょっと、考えてみて。」

と言われて 考えたけれど、
考えてわかるものではなかった。

けれど 
少しでも 再発の可能性が少なくなるのならば
そうしたい、と思っていた。

亭主に相談したら
「先生に頼んで、絶対、やってもらえ!」
と命令形で返事がきた。



12月に検査結果を聞いたときに
私から
「ゾラデックスの注射の事なんですけど・・。」
と話を持ち出した。

この時は いつもどおりの混み方で
主治医も忙しそうだった。

私は
主治医に時間をとらせたくないのと
思い切ってやってみよう、というのと
考えるのは面倒だ、という思いとで
あっさりと
「お願いします。」と伝えた。



しても後悔、しなくても後悔ならば
やってから後悔したい。

術後の私は それまで以上に
結婚以外の事に関しても 
そう考えるようになっていた。

強いていうなら、これもチャレンジのひとつ。



ただし 
ゾラデックス注射には 
問題がひとつ つきまとう。

病院との往復に時間がかかるとか
駅前の駐車料金も含め 交通費がバカにならないとか
ではない。

前にも書いたが、痛いのだ。

私としては 治療の延長の付帯条件、
注射を 痛くなく打ってほしい。



主治医からは 以前に 

「痛いと言う人には 私が注射を打ってあげている。

 あなたのゾラデックスも 私が打ってあげようか?」

と言われた事がある。

私はずっと覚えていた。

主治医は忘れていたようだったけど。

あの時の私は
あれ以上主治医の診察待ちの時間を長くする方法は
他の患者さんのためにも 選びたくない、
と思って 断ったのだった。



ここでもう一度 (ドキドキしながら)
主治医に注射をお願いした。

快諾を得たのでほっとして帰宅。

以後、月に一度の主治医とのランデブー、
長いすのような細いベッドに横たわって
たわわな(?)お腹をぷるんと出して
注射を打ってもらっている。



けれど しばらくして
乳腺の和のQ&Aに
ゾラデックス治療の期間についての質問があり、
あそこのドクターは
2年を3年にしても 
治療成績が上がるという報告がない、として
否定的だった。

が~ん!
そうなの?

でも確かなんかに書いてあったよ!



そういえば 
11月も12月も
私から主治医に話を切り出している。

これは 標準治療が2年だから
2年で充分、ということなのではないか。

私は いらない治療を受けているのか?



まあ、いいや(笑)。

主治医も確かに やったほうがいいと言っていたもの。

問題は、主治医が 老眼が始まっている事。

注射は確かに、それほど痛くない。

「若い先生は まじめだから、 深くハリを刺す。
 ちょっとでいいんだ。」

と 得意そうに注射してくれる。

そのあとの、絆創膏。

これが、注射の跡からずれている。

診察室の中だから、
看護士は絆創膏を貼りにきてくれない。

めがねをして 顔を前に向けたまま
視線だけを 真下に向けて
主治医が 絆創膏を貼ってくれる。

絆創膏を 皮膚の弱いお腹に貼ると かぶれる。

そのカブレの真下に 注射跡があった時には
痛くて痒くてまいった!

それから 見当違いの所に張られたことも。

注射の針が太くて 出血が止まりにくいので
下着を血液で汚してしまった。

この前は よく見極めて 
ずれるようだったら
「貸してください!」と言って
自分で貼ろうと思っていたが
すごいスピードで サッと貼ってしまったので
笑ってしまった。

早口の主治医に
ようやく、慣れてきた所。

術後2周年

2005-07-17 | 乳がん
2004年11月、
私は術後二年目の 検査を受けた。

一年ごとの、フルコースの検査がセットされている。

最初の日は
視診・触診、採血、レントゲン、エコー。

まずはゾラデックスの注射を終えて 
外来に行くとすぐ!
この日、初めて!!!!!!!!
予約時間よりやや早く 診察室に呼ばれた。

何の異変があったのか?????

いつもは2時間から 2時間半くらい 
待たされるのが普通なのに!

主治医は、上機嫌!



診察室に入ると、
当然、上半身 脱いでハダカになる。

上機嫌な主治医は
私の胸を見て 「いいじゃな~い。」

私の胸に触って 「いいじゃな~い。」

「いいじゃな~い。」を連発。

形も綺麗にできて、柔らかさも戻って、
ということらしい。



ムクムク頭をもたげてくる、反抗心。

今更 おっぱいの形をどうのこうのと
文句をいうつもりは なかったのだが
主治医の様子に、つい。

「でも、私、不満です。」

「どこが~?」

「トップバストの高さが 
 左右で 2センチも違うんです。」

中村ブレイスで 測って、そういわれたもん。

主治医は トップバストの高さではなく、
乳輪のまわりの 三日月形の溝の方を
気にしている様子だった。



「ここが、こうなっているから、
 こちら側が、上がっちゃう。」

「はい。こちら側は このごろ 垂れてますし・・・。」

「まあ、不満が出るということは、
 不満が出るほど元気だ、ということだ。」

「はい・・・。」

「不満が出るほどね~~~♪
 元気なんだよ~~~♪」

「???」

主治医は、あくまで、上機嫌。



主治医は 私の胸は ‘グッド’だと言う。

一番いいのは ‘エクセレント’で、
私の場合は その次の‘グッド’なんだそうだ。

三日月形の溝ができたので 
私の胸は ‘エクセレント’でなく
‘グッド’なのだとか。

術後の胸の変形の度合いを
何段階かにわけるのだろうか。

私のこの胸で ‘グッド’なのだったら、
‘グッド’でない人は もっと酷い変形なのか?

確かに、中村ブレイスの人に
もっと酷い変形の人も多い、とは聞いたけど。

こんなんで、‘グッド’なんて言われたくはない。



主治医は 私に
整形で形を整える事ができる、というような事を言う。

少しは気にしてくれているのか?

でも お腹や 背中の筋肉を切り取って
胸に持ってくる、というのは、
全身麻酔だし、
筋肉を切るわけだし、
お金はかかるし、
イヤだ、痛くて。



それにしても あんまり機嫌がいいし
あまりに 時間にも余裕があるので
思い切って いくつか 質問してみた。

私は この頃にはもう
自分の癌について 忘れてしまった事が多かったので。

が~~ん!

私の癌は あんまし 良くない!



病期がⅡAというのは 記憶どおりだったけど、

癌の種類は硬癌、
転移が多いというヤツ。

グレードは Ⅲ。

悪い!



乳腺の和の中のQ&Aで、
ここのドクターが よく
「温存手術の適応ではない。」
とか言ってるではないか。

リンパ節に転移もあったし、
本当に 温存でよかったのか?

どっきり、びっくり、不安になる。

リフレインして頭の中に響いてくる、あの日の言葉。

「あなたの癌は、大きかった。」

「思っていたよりも、広く飛び散っていた。」



まあ、いいか。

私の主治医は、このヒト。

がんセンターの 乳腺外科の主任医師。

センチネルリンパ節生検を導入したのも
あっちのドクターより早かったし、
そうそうヘタな失敗はしないだろう。

別の言葉もリフレインする。

「癌は取りきれたと思う。」



それにしても、私って、本当に忘れっぽい。

こんな大事な事を 忘れていたなんて。

忘れたいと思っていたのか?

忘れようとしていたのか?



別の日に 笑いそうなのをぐっと抑えて、
腹部超音波。

12月にはいってから、
骨シンチ。

結果はクリスマスの前に。



腫瘍マーカーの値は、低め安定。

子宮筋腫は やや大きくなって50mm。

筋腫ができるような、筋腫があったら大きくなるような
副作用のあるお薬を毎日飲んでいるんだものなあ。

あと、脂肪肝!

トリグリセライド(中性脂肪)、208!



骨シンチの結果の写真をみると
黒くなっている部分があるので
見るのが怖い。

「頚椎右側の点状集積は 減少してきています。

 また淡いが 仙骨の集積像が
 前回より目立ちます。」

怖い、怖い。

でも 
「これも degenerative change を示唆する
 所見と考えられます。」

「その他の部位に 明らかな骨転移を示唆する
 局所的な異常集積は 認められません。」

とあるのは、それほど悪くないのではないかな?

とにかく 主治医が 「オーケー♪」「オーケー♪」
と言うのだから、オーケー♪なのだろう。

気にしないことにする!



「一周年記念日」の所にも書いたけど
お祝いは ナシですまされてしまった。

(理由は、亭主が時間がとれないから;怒!)



今年の6月には 誕生日が来たけれど
自分としては さほどの感激も感慨もなかった。

(まだ 50歳の大台にのったわけでもないし。)

手術をしてから 何年がたったか。

そちらの方が より 比重が重い。

第二の誕生日、というわけだ。

そして これから 一年一年 
いろんなことを考えて
いろんなことをかみ締めながら 
これから 生きていくんだろうなあ。

牛頭天王

2005-07-16 | 考えたこと
昨日の朝刊に
キトラ古墳の午の絵の写真が載っていた。

色鮮やかな
赤い衣服を着けた午の絵だ。



これを見た私は 直感で
「ああ、もうすぐ祇園祭だから、
 牛頭天王がでてきたんだな。」
と思ってしまった。

よく読むと‘牛’でなくて‘午:うま’だし、
よく絵を見ると 確かに 馬の絵だった。

牛頭天王じゃなくて、相方の 馬頭天王だ!
と思った。



もっと よくよく記事を読むと 
‘獣頭人身の十二支「午」像’と書かれていて
祇園祭や牛頭天王とは 関係がないのだ。

この素晴らしい馬の絵は
「中国風のゆったりした袖のある赤い衣服を
 身につけ、・・・。」
とあるように
異国情緒を感じさせる衣服をまとっている。

私が 閻魔大王の使いを描いたものと勘違いしたのも
この衣服のせいかと思う。



どうでもいいことだし
文献に当たって 調べるつもりもないが
忘れたくなくて 記事にした。

実家の周りや 近隣のムラでは
阿波(あんば)囃子の練習が始まっているだろう。

冗句

2005-07-16 | なんでもないこと
亭主はこのところ 機嫌がいい。

ずっと忙しかった 去年からの仕事の
ひとつの大きな節目であるイベントが
先月終わって ほっとしているのだ。

同時進行だった 小さな仕事も
昨日なんとか 形をつけた。



亭主がいれば
お昼を食べながら 録画したビデオを見るのは
よくやることだが
昨日は 午後のお茶を 一緒に飲んだ!

しかも、ビデオを見ながら!

最近なかったことだ。



あんまり上機嫌で 
久々に ジョークなどを飛ばすものだから
私は 一緒にお出かけしよう、とねだった。

何のことはない、
‘イトーヨーカドーで買い物して、食事’という
亭主のいつもの“家庭サービス”なのだが。

(ラーメン屋に行った。
 ラーメン屋も久しぶりなら、
 味噌バタコーンなんていって、
 バターを口にするのも 久しぶり!)



帰り道も 上機嫌なので 
明日もおデイトしたい、と言っておいた。

さて、どうなるかな?

ヘルペス

2005-07-15 | 考えたこと
これは
私のぎっくり腰の直接の原因になったと思われる、
東のブロック塀に沿って 
頑張って作り始めた ボーダー花壇。

土が まだまだ 固いせいか
矢車菊は 惨憺たる出来。

ツボサンゴは 好調。



この 南北に細長くて 日当たりイマイチの庭が
またまた 雑草を繁茂させつつある。

昨日は 蒸していたけど かんかん照りではないし、
草むしりに取り掛かった。

すると間もなく 唇の上が ピリッと痛んだ。

舌でなめなめ、作業を続けていたら
どんどん膨らんでくるのがわかった。

やばい!(←危険を意味する俗語。
        若者言葉のように
        ‘いい事’を表すわけではない。)

ヘルペスだ!



ヘルペスというのは 
ヘルペスウイルスによって感染する。

私は母から うつった。

そして、亭主にうつした。

困った事に 根絶できないらしい。

普段は 身体の内部に潜んでいて、
疲れたとき、風邪を引いたときなど、
体力が落ちたときに 姿を現す。

これが出たら、微熱がある、と思って
休むほうがいい。



鼻の中、鼻の下、唇の上あたりに
水ぶくれを作るのはまあいいが、
治りがけが 醜い。

水ぶくれができた部分が 
赤黒くなって なかなか とれない。

鼻の中のは 始末がわるいが 見えなくて済む。

それ以外の場所は とにかく目立つ。



私は キリのよい所で さっさと引き上げて
家の中に入った。

以前に皮膚科で処方してもらった 
チューブに入った塗り薬を綿棒でとって 
唇の上の ふくらみに塗る。

しばらく家の中でおとなしくしていたら
夕方には 水ぶくれは 消えてしまった!

赤黒く色が残ることもない。

出来はじめにつけるといい、とは聞いていたし
今までにも 2度ほど 
この薬の厄介になったが
今回は本当に すぐにつけたし、すぐに治った!



一生 治らない、こんなビョーキもある。

けれど 被害(?)は 最小限に。

お困りの方、ぜひ 専門医へ。

デジカメ!

2005-07-15 | なんでもないこと
2004年10月も最後の日になって
私はようやく ブログに写真を載せた。

電池の充電も ドキドキ初体験だった。

これは 大いなるチャレンジだったが、
私に楽しみが増えた!



写真の技術も カメラの知識も イマイチのままだが
載せたい! 見せたい! 写したい! 楽しい!!!

写真を撮るときは 結構夢中になって
息が荒くなっている事がある。

ワクワクしている。

これはきっと 免疫力にも 
いい影響があるに違いない!



それなのに ドジも多くて
シャクヤクのときも 
アジサイのときも
なんとお墓が入り込んでいる。

畑の中の個人墓地、
入らないように気をつけたはずだったのに・・・。

カメラの小さな窓で確認しても
よくわからないからだ。

ぼやけていても それもよくわからない。



でも 止めるつもりもない。

今日は こっちの方で 写真を、
なんて思うと
いつものヒップバッグに
大きなデジカメを押し込んで
ウキウキ出かけるのもいい。

テーブルの上に 物を置いて
テーブルの下が写りこまないように
あれこれ 動かすのも楽しい。

思い通りになんて 撮れないけど、
撮った写真を いじるなんて 考えられないけど、
自己満足でいいじゃない!



でも、やっぱり、もう少し腕を磨いたほうがいい?



この うちわ掛けは
確か 数年前に 銀座の鳩居堂で
500円くらいだったので、衝動買い。

うちわは、もらいもの。

こんなものを撮るのにも 
何回か失敗している。

でも、楽しい!

お盆のころ

2005-07-14 | 昔語り
昨日書いたように
私の故郷では 月遅れで お盆を迎える。

その頃には 早くも 新米が取れ始める。

昨日の提灯で いろんなことを 思い出した。


zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz

マリーゴールドは 土壌線虫を駆除するとか。

除虫菊の仲間だから 蚊を寄せ付けないとか。

我が家のやぶ蚊には 効かないが
土にはどんな影響があるのか。

薄いオレンジのジニアと組み合わせて植えたら
どうも ジニアの機嫌が悪い。

相性が悪いのか?
それとも 水遣りが足りなかったから?

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz


小さい頃は 本当に苦労がなくて、
お盆もウキウキする行事だった。

だって、
可愛い 赤い柄の 
長いたもとの 浴衣を着せてもらえる。

お墓参りに行くときに
持たせてもらう 赤い提灯も 大好きだった。

忙しい中、母は 姉と私を お風呂に入れ、
シッカロールをはたき、
ゆかたを着せたり
(暑いと暴れれば)脱がせたりしていたのだろう。



母が忙しくて 家の中がバタバタしているのも
B型気質としては 嫌いではなかったはず。

それから お盆の頃になると
いろんな 美味しいものが 採れだす。

新米は別としても、
枝豆に とうもろこし。

こんな 栄養豊富で 添加物のまったくないものが
あの頃のおやつだったんだなあ。

忙しい中、大汗をかきながら
母が茹でたり 蒸したり してくれた。



大掃除をする。

盆棚を作る。

盆棚に飾り付けをする。

お供えをする。

ご先祖様がいれば 
どこの家でも お盆にはしていることばかり。



それでも 実家の場合は
お寺だから 規模が少しずつ大きい。

面倒な事もいっぱい。

父は大忙し。

普通の家では作らないものを
たくさん作る。

お塔婆の依頼もある。

それらは 僧侶である父の仕事で、
妻や子供たちは <一切>!
手伝わなかった。

(可愛そうなおとっつあん。)



8月13日、
月遅れの迎え盆の日、
夕方が近づいてくると
ぽつりぽつりと 人が来る。

薄暗くなってくると
急に人が増えだして
どっと! 押し寄せてくる。

外に出た‘わげぇし’(若者)も帰ってくる。

嫁に出た娘も帰ってくる。

そして その子供たちは 
小さな子を連れて帰ってくるようになる。

小さな子は よちよち歩きを始め、
走り回るようになる。

浴衣を着て
子供用の可愛い提灯を持って
夕刻のお寺に集まってくる。

「ひさしぶりだねー。」

茨城弁の挨拶が飛び交う。

ウロチョロしている私が
ウキウキしないわけにはいかない。



人々は 手に手に 重箱に入れたお米を持って来る。

それを受け取ると
竹製の大きなかご
(? 背中に背負う籠より もっと大きいが
 背負い紐はついていない)
に入れる。

「ご苦労様でした」の言葉と
経文が書かれた一組(二本)の経木などとともに
重箱をお返しする。

ここらへんが 小さい子供でも手伝える仕事。

経木に お経文を書いておくのは
当然、父の仕事。

時には 
お野菜を 供物として持ってきてくれる方もいて、
それは 本尊様の前に 飾る。

新盆の家では 
それらを通常の2倍持ってくる。

寺から渡すものも 2倍になる。



それらを持って
村人たちは 墓地へ向かう。

寺から 墓地へ(寺の隣にある人が多い)、
墓地から それぞれの家へ。

提灯の行列ができる。

その行列は 幻想的で 美しくて
ちょっと物悲しくて
御伽噺の世界に引き込まれそうな
魅惑的な怖ろしさをもっていた。



そんな日が 三日続く。

我が家の墓参は 人の足が途絶えてから。

かなり遅くなる。

棚行で 檀家さんの家々をまわってきて
ヘトヘトになって
お経の読みすぎで 声まで変わった父と
夜遅くに お墓へ行き、
可愛そうな父は
そこでまた 般若心経一巻を読む。



会った事のない私の祖父が眠るお墓。

ほとんど会っていない祖母も 
後に加わった。

今は 父もそこに眠っている。

今年も月遅れのお盆が過ぎたら
お墓参りに 行けるかな。

ほおずき

2005-07-13 | 考えたこと
いただいた鬼灯(ホオズキ)の苗が 毎年色づいてくれるので
今年は 芽が出たところで ビニールポットに移して
苗を作った。

たくさんの苗がとれた。



今日は 娘を駅まで送っていった帰りに
茶色に色褪せた提灯を下げている人を見かけた。

苗字が書かれている。

ああ!

きょうから お盆だったんだ!

そういえば 駅の周辺では 
7月お盆だと聞いた事がある。



ムラは 月遅れのお盆、
亭主の実家も 私の実家も そう。

七月にお盆があるとは ピンとこないで 
大人になった。

こんな身近に 7月お盆があったんだ。



提灯は もとは白か生成り色かと思う。

そこに 苗字や 家紋が入っている。

年に数日しか使わないはずなのに、
見かけたのは あめ色になった 提灯だった。

義父母が初代の先祖になる我が家には
この提灯がない。

ちょっと憧れる。



関節を取り上げるというので
パソ子に向かいながら
テレビの○○を見ていたら
滋賀県に「水生植物公園 みずの森
というのがあって
美しい蓮の花が 見られると言う。

実家の周りには レンコンを掘るための
蓮田があるけれど
花が美しいのは 月遅れのお盆に向けて
これからだと思う。

七夕と同じく、
お盆も
暦は 陰暦が ピンと来る。

せめて月遅れがいい。

ごじゃっぺ

2005-07-12 | 考えたこと
茨城はいつから「いばらき」になったのか!?
というアカデミック(?)な一文によると
「代表的な方言は『ごじゃっぺ』(てきとう)
 とかですね。」
と茨城県庁の職員が語っている。らしい。

ちなみに
イバラキは廃藩置県の時からイバラキだったとか(笑)。


sssssssssssssssssssssssss

しじら織りという織り方があるらしい。

これは その織りだと思う。

2種類の大きさの座布団カバーと
クッションカバー。

この肌触りの一重を さらりと着こなせたらいいなあ。

sssssssssssssssssssssssss


『いばらきじゃなくていばらぎ』のウラについてる
「茨城弁大辞典」によると、

‘ごじゃっぺ’or 
‘ごじゃ’or 
‘ごじゃらっぺ’、
という言葉は

=いい加減、ばか、どじ、間抜けなどの
 否定的表現に使用。
 茨城弁の 基本中の基本。

とある。



声に出して言ってみていただきたい。

その響き。

なんとなく、田んぼの泥に手をつっこんだような
奇妙な 快感が走らないだろうか。

濁音を含んだ 汚らしさと
半濁音の軽快さ。

不思議な味わいのコラボレーションを楽しめる
ステキに気持ちのよい言葉だと思う。



用例として
 「あすこのわけしはごじゃっぺだちけ。」
 →あそこの息子は 間抜けらしい。

 「あんまりごじゃっぺなごとばっかぬかしてんじゃねえよ。」
 →あんまりいい加減なことばっかり言うんじゃない。

の二つが挙げられてている。

(注:濁音は、決して、鼻濁音では、ない。)



雰囲気は・・・伝わらないだろうなあ。



「ごじゃっぺやってんじゃねえよ。」
とか
「ごじゃやってんじゃねえよ、貸してみ。」
とか
普通に聞いていたと思う。

ゴチャゴチャしてる、の意味の‘ごじゃ’なのだろうか?

ほんとうに 茨城の人意外は
この言葉をつかわないだろうか?

こんなに素晴らしい語感の言葉なのに?

お灸

2005-07-11 | 更年期
こんなのを 武蔵小杉の鍼灸師
山田先生からゆずってもらった。
(ただし、有料。)

お灸、である。

黄緑色の台紙に 粘着力で張り付いたお灸の筒をはずして
身体の‘ここ’と思う場所に
粘着力で 貼り付ける。

斜めになっても 逆さになっても
モグサの灰は落ちても 筒は 張り付いていて取れない。

お灸も便利に進化したものだ。

熱くなったら 取る。

だから、やけどはしない。



中身のモグサは ヨモギから作られるという。

火がついて 煙が上がると、いい匂いがする。

けど、煙い。

それから、
翌日になっても 部屋ににおいが残っていると 
いい匂いではなく ヤニ臭くなる。



冷えるところ、痛むところ、ツボ。

体中に 数百はあるというツボは
私にはよくわからないが、
冷えるところは よくわかる。

ここ! ここ!! 
ここが冷える!!!
冷えて、痛い!!!!!

夏は夏で クーラーで冷えるから
冬よりもっと 辛いこともある。

しかも 夏の間に冷えてしまうと
その年の冬は こたえる!



去年の夏には 親指の付け根がよく痛んだが
その後は
痛みや冷えは かかとに移った。

それが、どんどん痛みが強くなっていった。

かかとが痛いと、歩くのに困る。

困るけど、歩かないわけにはいかない。



家の中ではヨタヨタと、
土手の散歩では 歯を食いしばって
頑張って歩いた。

親指の付け根が痛いから
無意識のうちに かかと歩きになっていて、
かかとに負担がかかりすぎる歩き方になっていたかな、
とか、
靴がよくないのかな、
とか、
いろいろ考えたけど
歩かないのはもっとよくない、と判断した。

(今 考えると、素人判断で、怖かったなー。)



かかとには 夜のお風呂上り、寝る前に
換気扇をまわして お灸を据えた。

かかとの ‘こことこことここ’に お灸を据える。

据えると かすかにあったかい。

すると さっきの ‘こことこことここ’以外の場所が
冷えている。

つぎの ‘こことここと・・・’にお灸を植える。

すると、
別な‘こことここ・・・’が冷えているのがわかる。

もうイヤになって やめてしまうと
ほどなく かかとは 元通り 冷えている。



そうやって お灸を据えた部分は
薄茶色に ヤニがつく。

タバコのヤニと違って いい匂いがするが、
なんど据えても
冷えはとれない。

しまいには
私のかかとは 次々据えたお灸の痕で
まるで 蜂の巣状態。

蓮の実を思い出したり。

そういえば
蓮のことを ‘はちす’ともいうのだ。



最近は ようやく
お灸を据えると 暖かさを感じるようになった。

モグサが燃え尽きても 
すぐまた元のスースーする寒さが
かかとに戻ってこない。

冷えが改善されてきたのだ。



歩いても かかとが痛むことは
ほとんどなくなった。

替わりに 小指の付け根の 足の甲寄りと
足の甲の真ん中辺が痛むようになった。

ああ、こんなところにも 関節があったんだなあ、
と感心してしまう。



冬の間は 換気扇を回すと 部屋が寒くなるので 
お灸をしないが
今なら がんがんお灸を据えられるから、
また 再開しよう、自宅鍼灸院。

今も冷えているひじ、ひざ、ふくらはぎから下が
ほかほかになれたら
どんなにか シヤワセだろう。

さてさて

2005-07-10 | 考えたこと
2004年の夏は ようやく終わろうとしている(笑)。

2004年の夏は(シツコイ!)
オリンピックの夏だった。

日本選手の予想以上の活躍に
早寝・早起き・早朝散歩を自身に課していた私も
ついつい 夜更かし。

そうして、
間もなく始まる、パラリンピック

iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii

ぎっくり腰の影響で 模様替えが遅くなった
我が家のリビングも
先月 無事に 夏バージョンになった。

和室がないので 
こうでもしないと 私はイグサに 触れられない。

スリッパは 冬でもイグサのが好き。

iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii


そんなことが あったっけ、と思うくらい
昔の事のよう。

プチ鬱になったことなんかも、
ずっと前のように思える。

あのころ 車のCDプレイヤーに入っていたのが
中島みゆきだったのも きっと良くなかった(笑)。

(大吟醸だか、大銀幕だか?)



亭主は 新たに引き受けた仕事で出張が増え、
まれに空いた日には 
実家に行っていた。

亭主には 休める日がなくなっていた。

実家では 
義母の面倒を見るために 義父の負担が増え、
家の中・外、
ゴミが増えた。

亭主は 義弟ともども 空いた日には 
なるべく実家へ行って
いろいろと片付けてくる。

義弟は週末、亭主は平日。

それぞれ ゴミやガラクタを片付けては
車に山と積んで 戻ってくる。

義父には ゴミの収集の日に
収集場所に持っていく、という
簡単なことでさえ
なかなか やりにくくなっていた。

(収集場所は 坂を降りてすぐの場所なのだが。)



そうして迎えた秋(やっと!)、
私は コンサートの切符を手に入れた。

大好きなグループがゴスペルを歌う。

宗教音楽は(仏教より)キリスト教のが好き。

私は亭主の了解を取り付けると
切符を手配し、
子供たちに この日はコンサートに行くから
他の予定は入れずに
ママに付き合うこと、と厳命した。

これだけで 相当勇気が必要だった。

亭主や子供たちに拒否されたら、とも思ったし。

そして 
駅前のコンビニで 発券機を使うなんて、
考えたこともないことをやった。

(世の中、便利になったもんだ!)



ちょうどコンサートの日に 
アポを入れたいという客がいたが
亭主は
「その日はちょっと都合が・・・。」
と言って断った。

今まで同様にして(来客がなかなか帰ってくれなくて)
予定した時間がどんどん遅くなってしまって、
夕食が食べられなくて・・・、
ということは 何度も経験済み。

思っていた以上に 
亭主は 約束を大事に思ってくれていた。



その土曜日の夕方
私は生まれて初めて
コンサートというものに行った。

結婚前から 
コンサートに行こう、と言っていた亭主だったが
ついに 私が切符を取るまで 
連れて行ってはもらえなかったわけだ。

けれど 娘と 土曜日も学校・部活のある息子を交え、
家族四人で 並んで椅子に座る、
それだけで嬉しく、
この行事を大事に思ってくれる亭主が
はやばやと 車を出してくれる、
それだけで ありがたかった。



ただ 気分は 晴れ晴れとしなかった。
プチ鬱のなごりがあったようだ。

沈みがちな自分を 普通くらいの気分に何とか保ったが
亭主は 私の顔を見て 少し心配していた。

普通なら ウキウキして
もっと ニコニコしているはずの私が
無表情だったからだろう。

そうは思ったが 
私もそれ以上に気分が落ち込むのを抑えるのがやっと。

これは 残念なことに
コンサートが始まっても同じだった。



亭主も子供たちも
ノリのよいゴスペル、
しかも ハーモニーは確かで美しい、
こういうのは 大好きなはず。

楽しんでもらえたと思う。

私はようやく 自分を平静なラインに
引き留めていた。

リズミカルな曲では
手拍子を求められる。

やりたくなかったが
亭主や子供に囲まれて、
拍手をしないと どうしたかと 思われるだろう。

しかたなく、手拍子を打つ。

リズミカルな運動は
鬱の克服に役立つ、と 以前書いたことがあるが
この時の手拍子は
少しだけ役に立った。

治療のための外出が取りやめになったり
変更になったりして
家から出ないこと11日目の9月のことだった。

ヤロウ・Mellow

2005-07-09 | なんでもないこと
繊細な葉が美しい、ノコギリソウ。

別名ヤロウ。

ハーブらしい。

我が家のは 白い花のみ。



近くの小学校の前の畑に
ピンクのノコギリソウを見つけて、
欲しくてたまらない。

よく増える 丈夫なハーブだから
頼めば分けてもらえそうだが
誰んちの畑かわからない。

黙っていただいてくるのも
場所的にちょっと・・・。



ヤロウというと 思い出すのが
野郎、女郎という言葉。

今東光氏の著作に
『すっぽん女郎(めろ)』というのがあって、
茨城のKENNAN(笑)の一部には
男性を‘野郎’と呼ぶのに対し、
女性を‘女郎’と呼ぶ地域があると書いてあった。

今東光氏は 茨城南部に住んでいたことがあるらしい。

私は地元の人の口から ‘めろ’という言葉を
聞いた記憶はないが、
なんとなく そんな言葉もありそうな雰囲気、がある。

ちなみに 『いばらぎじゃなくていばらき』のなかの
「茨城弁大辞典」の‘め’の項目の中には
見当たらなかった。



中年の汗

2005-07-08 | 考えたこと
ここ数年
亭主が盛んに言うようになったことがある。

それは
汗。

「年をとると こんなところに
 汗をかくように なるんだなあ。」と。


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日陰の庭にお勧め、丈夫な ベゴニア。

この薄いピンクは 白妙菊との組み合わせが好き。

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それは、
後頭部から首の後ろと 腰のあたり。

亭主は 汗っかきだが、
後頭部などには 汗はそれほどかかなかったし、
腰にだって こんなにびっしょりになるほどには
汗をかかなかった、と言う。

なんとも思わずに聞いていたが、
2004年の夏、
私も同じところに汗をかくようになり、
実感!

ホットフラッシュの時も、同様。



なんだ、そんなこと、気のせいじゃないの?

と思われるかもしれないが、
本当にそうなのかもしれない。

夜(夕方ではない) 駅で帰ってくる娘を待ちながら
聞いていたカーラジオで
ゲストのミュージシャンが
亭主とまったくおんなじことを言っていたのだから。

「年をとると、後頭部から 首のうしろにかけて、
 こーんなところに 汗をかくようになるんですよ!」



私たち夫婦だけじゃない。

食べ物のせいではないだろう。

医学的に 説明できるだろうか?

理想の朝ごはん

2005-07-07 | 食生活
ウチの亭主の理想の朝ごはんは、
メロンパンなのだと言う。

sssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssss

種をまいて 苗を育てた小さなひまわり、小夏が
元気に成長している。

苗がいっぱいできたので
株間を少なくしたら
びっしり! になってしまった。

できたら 
花もびっしりつけてくれるといいんだけど。

sssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssss


メロンパンが好きな亭主、
都合よく 世はメロンパンのブーム。

菓子パン、特に メロンパンをいっぱい買ってきて
嬉しそうな亭主。

そのパンを 虎視眈々と狙う子供たち。



いつもパンを入れておく戸棚を空けて
「俺のパンが ひとつもねえ!」
と叫ぶ亭主。

「ママが、いいって。」
と子供たち。

そんな日々が続いていた。

つい数年前まで。



子供のころは 私たちも 日に三度
ご飯を食べていたはず。

それが いつの間にか
というか
東京時代、自炊時代に パンに替わった。



特に甘党の亭主は
甘いパンが大好き。

出張から帰ってくる時には
よく 閉店前のミスタードーナツで
たくさんのドーナツを買ってきて
「ほおら!
 明日の 朝ごはんだよー。」
と見せて
子供たちを喜ばせていた。

それが嬉しい甘党の息子、
好きなドーナツを 姉さんに取られないように
ドーナツの朝は 起こすと飛び起きる。

つい数年前まで。



私が入院してから
亭主が付けてくれた習慣で
子供たちは 朝ごはんを 
テーブルに向かって座って食べるということは
なくなった。

息子は おにぎりを車の中で。

娘は、食べない。



私が 師匠の本を読んだり 講演を聴いたり
玄米食にしたりして、
‘食と健康’について 考えることが増えてから
子供たちに言うようになった事がある。

「パンは、
 特に 日本のパンは、
 たとえ 食パンでも
 砂糖と油のかたまりだよ。」

もちろん、師匠の受け売り。

おまけに 輸入小麦の可能性も。

そこまでは 言わなかったが。



子供たちにも 亭主にも
なるべく 身体にいいものを 食べてほしい。

これは 自然な欲求だろう。

そして 自分は 決して口にしたくない。

これも、自然な恐怖だと思う。

どうせ 亭主は 私の言うことなんか聞かない。

だから 子供たちにむけて言う。

亭主の前で。



結果、亭主は パンを(なるべく)止めて
大好きなお餅を 毎朝食べるようになった。

お湯を注ぐと おいしいお汁粉になる最中を
いただいた時には
昨日も今日も明後日も お汁粉、なのだが
カロリーは 少なくなっているはず。

油分の摂取がとにかく減った。

毎日、毎朝のお餅。

よく飽きないなあ、と思っていたが
最近さすがに飽きてきたらしい。



ここらで 逆転、ご飯食に目覚めてもらえたら、
と思うのだが、
これがまた 難しい。

亭主は 朝 起きるのが遅い。
遅いが、電話が鳴ったり チャイムが鳴ったり
仕事は始まる。

ささっと 起き抜けに食べて
間もなくやってくるお昼に障らないように
軽く食べたいのだ。



2004年 夏。
朝の散歩から 帰った私が
洗濯物を干す前後、
午前9時ごろ 亭主は起きていた。

一緒に朝ごはんを食べた。

亭主は 餅。

私は 玄米ご飯に 漬物、焼き海苔、納豆、
おじいちゃんの梅干・・・。

そして 何を言うかと思ったら、
「早起きしていた頃の方が
 身体の調子がよかった。」



以前は 朝6時に家を出たり
朝6時に起きたりしていた亭主。

「だったら、もすこし 早く起きれば?」

思うけど、言えない。

一度 「一緒に 朝 歩かない?」
と言ったら 
「二度とそんなこと言うな!」
と怒られた。



私の願いは
亭主と一緒に
和食で粗食の 朝ごはんを食べること。

いや、その前に、
家族そろって
ダイニング・テーブルについて
何でもいいから、朝ごはんを 食べること。

実現は 難しそう。