埼玉県深谷市にある
吉祥寺の住職のブログ
イチョウの下のよもやま話
悲しみを乗り越えるために その1
これは 七七日忌の法話として考えたものです。
四十九日忌は、
七七日忌、尽七日忌、大練忌、脱光忌、放光忌、幽回忌、
棚上がり、棚上げ とも言います。
多くの方がご存知の≪十三仏信仰≫では、
本地薬師如来である泰山王が
亡くなった方の 次の生処(本有)を最終決定する、
つまり、
亡くなった方が
娑婆世界(死有)からの旅(中有)を終え、
次の世界に到着した、
或いは 生まれ変わった(生有)日 とされています。
本日を以って、皆様は
四十九日間の忌中が明けるわけです。
この≪忌≫というのは、
近親者の死に当たって
その穢れが除かれるまで 忌み籠もる期間の事をいいます。
平安時代の延喜式によりますと、
忌中の死穢について
「死者を出した A 家の者が B家を訪れると
穢れは B家全員に付く。
C家の者がB家を訪れると
訪れたものだけが 穢される。
B家の者がC家に行くと
C家全体が穢される。
ただし D家の者がC家を訪れても
死穢には犯されない」
と説明されています。
一方、≪喪≫ というのは、
喪服を着て 個人の冥福を祈りながら、
慎ましやかな生活をする期間の事で、
具体的な日数の規定はなく、
自分で喪中期間を設定することになります。
つまり、
忌中の間は、
皆様は どこを訪れようとも、
行った先の人から
「死穢に犯される」ということで
絶対的に 交わりを拒絶される。
忌が明ければ、
訪れた先の人は 交際を再開してくれますが、
皆さんの意思で 百ヶ日忌まででも 一周忌まででも
「喪に服する」という意味で
他人との交わりを謹んでも
失礼には 当たらない という事になります。
さて、このような忌中が明けたという事は、
ある意味では、
今日から皆さんも 故人の死から解放されて
一人歩きを始めなければならないという事になります。
もちろん、誤解しないでいただきたいのですが、
故人の供養はもうしなくてよい
という事ではありません。
極楽に往生を遂げたであろう故人への供養は、
更なる故人の冥福と成仏を願って、
また 生前 皆さんが
故人から受けた御恩に対しての感謝の意味も込めて、
今後も続けていく事が大切です。
続きます
四十九日忌は、
七七日忌、尽七日忌、大練忌、脱光忌、放光忌、幽回忌、
棚上がり、棚上げ とも言います。
多くの方がご存知の≪十三仏信仰≫では、
本地薬師如来である泰山王が
亡くなった方の 次の生処(本有)を最終決定する、
つまり、
亡くなった方が
娑婆世界(死有)からの旅(中有)を終え、
次の世界に到着した、
或いは 生まれ変わった(生有)日 とされています。
本日を以って、皆様は
四十九日間の忌中が明けるわけです。
この≪忌≫というのは、
近親者の死に当たって
その穢れが除かれるまで 忌み籠もる期間の事をいいます。
平安時代の延喜式によりますと、
忌中の死穢について
「死者を出した A 家の者が B家を訪れると
穢れは B家全員に付く。
C家の者がB家を訪れると
訪れたものだけが 穢される。
B家の者がC家に行くと
C家全体が穢される。
ただし D家の者がC家を訪れても
死穢には犯されない」
と説明されています。
一方、≪喪≫ というのは、
喪服を着て 個人の冥福を祈りながら、
慎ましやかな生活をする期間の事で、
具体的な日数の規定はなく、
自分で喪中期間を設定することになります。
つまり、
忌中の間は、
皆様は どこを訪れようとも、
行った先の人から
「死穢に犯される」ということで
絶対的に 交わりを拒絶される。
忌が明ければ、
訪れた先の人は 交際を再開してくれますが、
皆さんの意思で 百ヶ日忌まででも 一周忌まででも
「喪に服する」という意味で
他人との交わりを謹んでも
失礼には 当たらない という事になります。
さて、このような忌中が明けたという事は、
ある意味では、
今日から皆さんも 故人の死から解放されて
一人歩きを始めなければならないという事になります。
もちろん、誤解しないでいただきたいのですが、
故人の供養はもうしなくてよい
という事ではありません。
極楽に往生を遂げたであろう故人への供養は、
更なる故人の冥福と成仏を願って、
また 生前 皆さんが
故人から受けた御恩に対しての感謝の意味も込めて、
今後も続けていく事が大切です。
続きます
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