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イチョウの下のよもやま話

埼玉県深谷市にある
吉祥寺の住職のブログ

葬式仏教 その3

2013年07月22日 | 日々之法話
最後に 仏教側から追善儀礼を見ると、
それは はじめ 布教の契機や手段としての
傍的な取り組みでした。






日本に伝来した最初期の仏教の存在価値は、
上流貴族から要請された
當病平癒や 現世利益の祈祷、先進学問、
または 民衆統治の道具の中にあったのです。



しかし、前にもお話したように、
死体、死霊の処理を 仏教に期待する民衆の要求は
切実なもので、

権力的、在俗的な中世の仏教教団を嫌悪していた隠遁僧や、
在野に下った聖たちを中心に、
追善供養にも 真剣で積極的な対応がなされるようになりました。



そして、自然神崇拝を貴重とした
土着信仰、古神道、修験道、
更には 外来の儒教、道教などとも結び付いて、

日本の風土に適合した 独特の理念を構築するに至り、

数々の弾圧にも耐えて 
着実に生き残り、発展し、展開したのです。






もちろん、隠さずにいえば、
仏教の追善儀礼が 
純粋な布教や民衆救済の意識からだけ生まれ、
発展したものではなく、

貴族政治の崩壊や戦乱、
明治の廃仏毀釈等からの経済的再生の目的で

権力と結び付いて民衆に対したり、

または 必要以上に呪術的な教理を創造し、流布させて
人々を威嚇し、

いたずらに神威を鼓吹した場面があった事も否めません。






しかし、出発点における仏教と民衆の関係は、
信仰を媒体とした お互いの信頼関係において成立したものであり、

その中心となったのは、
葬送、追善の儀礼なのです。



したがって、現今の≪葬式仏教≫という仏教批判も、
私達僧侶はもちろん、
皆さんも 一度 その淵源を思い直していただき、

積極的、発展的に 仏教を ご自身のものとし、
より 有意義な追善供養を行なっていただきたいと思います。



今日は、ここまで!