伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

田舎暮らしの日々とガーデニング 時々ニャンコと

小説を発信中

  
  
  
  

  

終戦記念日・・・終戦から始まった私たち家族の地獄

2020-08-16 12:51:33 | 樺太

昨日は終戦記念日だった

今年は書くのをよそうかな・・・と思ったが

やっぱり書くことにした。

私は樺太生まれの6人きょうだいの末っ子

終戦までの記憶はない・・・二歳だったから

終戦後

私達は山に逃げた・・・その時の記憶はある

野宿して夜露に濡れた記憶が

そして毎日恐ろしくて毎夜殺される夢を見た。

男はソ連兵に殺され

小さな私も死の恐怖におびえた。

そのうち

祖母を含め8人の大家族は引き上げ船に乗るために真岡の港まで

行ったが満員で乗れず

近所の人と漁船のボートをチャータしたがソ連兵に見つかり

家に帰されたそう・・・

家は荒らされ何も残っていなかった。

その時の記憶は皆無

後年次兄からこのことを聞いた。

でも

急いで船に乗り引き上げた人たちはソ連の潜水艦に襲撃され

尊い命を失った。

私達はその後

家を三つに仕切り

ロシア人の未亡人二家族と23年の引き上げまで三年間

一緒に住むことになった。

その間のことはなんどもブログに書いているので省くが

ある日

ロシアの家族を家に招いたことがある

未亡人二人と子供たち

兄たちはしきりに未亡人を気にして首を下に向けている

私も真似して立膝をしている未亡人のスカートの下をのぞくと

あれまぁー下着をつけていなかった。

すぐに親に怒られた。

 

当時の下層階級の人たちは貧しくて下着を付けていなかったのかなー

と私が言うと

がロシア人の農奴の連中はそういう習慣がなかったのかもしれない・・・

奴隷と同じだったからネ

そういう人たちが戦争にかりだされて・・・云々

話しが長くなるので省略。

 

無事函館に引き上げた私達は仙台出身の祖母の遠縁を頼って

伊達紋別駅に降り立った。

迎えの馬車に乗り

呑気に石蹴りしている子供たちの風景に

足をブラブラさせ

なんてここはのどかな所だろうと

幼心に平和である・・・普通の生活に心躍った。

数か月お世話になった後

私達は今は伊達区になった大滝に引っ越しした。

そこで父は林業を始め

成功して

私だけ大学に入れた。

12歳上の長男は苦学して大学まで出た。

その兄にも学生時代仕送りをしてもらった。

3人の兄たちは皆70代で逝ってしまった。

すぐ上の兄と8歳上の姉だけの3人きょうだいになってしまった。

二度と戻らないだろうと思っていた第二の故郷に帰ってもう

10数年になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする