伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

田舎暮らしの日々とガーデニング 時々ニャンコと

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風化させないために・・・3-引き揚げの時迷子になるー

2013-01-24 02:24:37 | 樺太
 いよいよ昭和23年の夏

 引き揚げ船に乗ることになった。

 引き揚げの時私は2回迷子になっている。


 一度目は大泊の港までは数十キロもある
 ため親は6歳になったばかりの私を知人の
 馬車に頼んで乗せた・・・。

 背中には子供用の母が綿糸で編んでくれ
 たリュックを背負っていた。

 どんなに心細かったことか・・・・

 どこを見ても人の波で知らないとこに

 1人放り込まれ私の心は恐怖で震えて
 いた・・・・・。

 小さいながら異常事態を察し・・・・
 わがままなど言えなかった。

 大泊に着いた時

 知人に

 「ここにいなさい・・・・」と大混乱の人ごみ
 の中に置き去りにされた。

 私は1人身も世もなく大泣きに泣いていた。

 何時間かして母が見つけてくれた時は涙も
 枯れはてていた・・・・。


 (大泊港)

 


 船の中では何度も迷子になっている。

 嬉しくてデッキに出て遊んでいるうちに迷子
 になりそのたびに白い服の若い船員さんに

 自分の家族の居る船底に連れて行かれた。

 服の胸にはがっちりと本籍や生年月日、
 保護者名などが書かれた布が縫いつけられ
 ていたので何度迷子になっても心配なかつ
 た。

 あの暗い幼少期の唯一の憧れは船員さん
 だった・・・・。

 今まで目にしたことのない真っ白な船員服
 と優しく凛々しかった彼の姿は

 数十年経った今も美しい光景となって

 私の内に蘇る・・・・。


 函館に下船した私達は

 父の従兄弟を頼り伊達の地に降り立った。

 迎えの馬車に乗り足をブラブラさせ

 穏やかな日ざしの中、石けりなどをして
 遊んでいる子供たちののどかな風景に

 幼い私は

 今まで味わったことのなかった

 普通に生きているということの幸せを

 強く感じていた・・・・。




 

(大泊の連絡船)




 その後伊達を離れて数十年

 伊達時代に出会った夫と7年前に

 またこの地に帰って来た。

 今、あの幼い日伊達に辿り着いた時の

 安堵と安らぎをじっくり味わっている。
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風化させないために・・・2「ロシア人家族と暮らす」

2013-01-23 02:46:23 | 樺太
 昭和20年8月

 引き揚げ船3隻が留萌沖で爆破され
 1700人もの犠牲者を出した為その後
 の私たちの引き揚げは見送られた・・・。

 幸い私たち家族はその船に満員のため
 乗れなくて命拾いしている。

 私たち一家は再び村に帰り自分の家を
 三つに区切りロシアの貧しい入植家族
 二組と

 昭和23年の引き揚げまで3年近く一緒に
 暮らした。

 その時のことはよく憶えている・・・・。

 ロシア人の女の子に幼い私がいじめられ
 て泣いて帰って来ると

 4歳上の兄がその女の子をグスベリの木
 の周りをグルグル追いかけて泣かせ

 今度は兄がその子の母親に

 「は・る・じ はるじ・・・・」とまたまた追い
 かけられつかまって怒られ泣い
 ていたことなどが

 妙に鮮明に脳裏に焼き付いて
 いる。

 配給の真っ黒いロスケパン・・・固くて食べ
 られないと泣いた兄がいたらしい・・・が何
 にでも好奇心旺盛だったチビッコの私は
 スープかなにかにひたして

 これは上手い・・・と食べた記憶がある。

 いまだに固いパンとかセンベイが好きであ
 る・・・・。

 ロシア人の家族は毎夜マンドリンを奏で
 カチュゥシャを唄っていて陽気だった。

 今思うに本当に唄が大好きな民族であった。

 「ダースケダァニァー・・・・カチュウシャ」と私も
 よく口ずさんでいたものである。

 夜唄っている時に私達は障子に穴を開け様子
 を見ていると向こう側でも子供達が穴を開けて

 こちらの様子を観察していた・・・・。

 フフフフ

 向こうの夕食は大きなお鍋がドンと置いてある
 だけで手で食べていた・・・。

 なんでもごった煮である。

 それでも昼パンを焼くと向こうのマダムが
 「シズコシズコ」と呼び よくパンをくれたもので
 あるが母は不衛生だから・・・・と食べさせて
 くれなかった。

 向こうの家族が我が家に遊びに来たことがある

 みんな壁によりかかって珍しそうにこちらを見て
 いた・・・お互いさまだったが・・・・

 兄たちがマダムの立ち膝をしているスカートの中
 をしきりにきにしていた・・・

 「み・る・ナ・・・」と


 親に怒られていた。

 下着を着けていなかったらしい・・・。

 ロシアでも最も貧しい人達が入植して来たのだろ
 う・・・・・。

 いよいよ引き揚げの時は

 マダムたちが泣いて見送ってくれたと母は

 語っていた・・・・。

 私は全く記憶にない・・・・。




 大泊市街



 
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風化させないために・・・-吾が忘れじの樺太ー

2013-01-22 19:12:24 | 樺太
 私は戦中の樺太留多香郡多欄内村で

 四男二女の末っ子として生まれた。

 父は仙台母は秋田出身で家は林業を
 営みまずまずの暮らし振りだった。


 昭和20年、私の3才の時ソ連軍の進攻で
 樺太は大混乱の中に投げ出され、空から
 何度も攻撃され、そのつど家族全員が山
 に隠れ野宿するという日が続いた。



 まもなく終戦になると男たちは銃を持った
 ソ連兵に殺されると言ううわさが流れた。

 たちまち私たちの村にも銃を持ったロシア
 兵が溢れた。
 手向かった人達が命を失った・・・・。

 大人達は誰もが最悪の事態を覚悟してい
 た。ある者は山に隠れ、年寄りや小さな子供
 達を抱えた家族はただじつと恐怖に耐えなが
 ら息を殺して自分達の運命を待っていた。





 そんな時、大人の恐怖にもみくちゃにされ小さ
 いながら大人の恐怖を何倍にも増幅させ受け
 とめていた私は、毎夜恐ろしい夢を見ていた。

 きまってそれはロシア兵に連れて行かれ、な
 みなみと血が溢れた洗面器の中に頭を押し込
 まれる夢だった。

 恐怖で心臓が氷りついた。

 「私は死ぬのだ・・・」

 どんなにもがいても抗いようもない力に捕えら
 れ、どんなに泣き叫んでも誰も助けに来てくれ
 ないのは分かっていた。

 たった一人で死んで行かねばならなかった。

 みんながこうして死んでいくのだと幼いながら
 自分に納得させていた。

 小さいながら

 必死で

 自分の運命と妥協することによって楽に生きる
 術を悟ったのだった・・・・。

 みんなそうなのだ

 みんなこうして死んでいくのだ・・・・。

 

 目を醒ますと、髪までぐっしよりと濡れ、
 心臓は飛び出さんばかりだった。

 夢は何度も襲ってきた。

 今度見たら「これは夢だ・・・」と叫ぼうとするの
 だが、なかなかうまく行かなかった・・・。






 この3才の時の恐怖の体験は

 いまだに私の脳裏から離れず

 時として頭をもたげ

 深い恐怖と悲しみにうちひしがれる時がある・・・・。



 今までどんな大きな試練があっても

 耐えてこられたのは

 あの苦しみを乗り越えてきたからかも

 しれない・・・。



 でも戦争はやだ・・・

 戦争は人間を悪魔にする・・・。





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そうだったのか・・・・大鵬さんは引き揚げ船「小笠原丸」に乗船していたのだ・・・・。

2013-01-21 00:56:38 | 樺太
 大鵬さんが亡くなり

 昨日道新に大きく報じられていた。

 私は相撲はあまり興味なかったが

 大鵬さんのことはよく知っていた・・・・。


 でも

 樺太引き揚げの時に「小笠原丸」に乗っていて

 稚内で下船していたなんて

 今まで知らなんだ・・・。

 その船は

 大鵬さん家族たちが下船した翌日、旧ソ連潜水艦

 に撃沈されたのである・・・。

 


 私が幼い頃

 いつも母が語っていた

 三船殉難事件・・・・


 母は家族を連れて港に向かったが

 満員で乗れなく押し戻されたこと・・・・

 とてもくやしかったが

 その三船は留萌沖で撃沈され

 沢山の人が犠牲になったこと・・・・

 乗れなくて良かった・・・・と

 何度もなんどもナンドモ語っていた・・・。


 小笠原丸に乗るつもりだった・・・・・と語っていた

 記憶がある・・・・。



 元横綱大鵬の納谷幸喜さんは

 戦中の樺太で生まれた。

 母は神恵内出身の納谷キヨさん、父は

 ウクライナ出身のポリシコさん。

 ロシア語が話せる父は幸喜さんが3歳の

 時に、日本の憲兵隊に連行され、生き別

 れになってしまった。

 「スパイのようなことをさせようとしたので

 しょうか。父とは、それっきりです」

 と語っていたそうである・・・・・。


 以上

 道新の記事より・・・・・・。




 稚内で下船しないで

 もし、さらに先の港へと乗船していたら・・・

 大相撲の歴史はまったく別のものになっていたこと

 でしょう・・・・。

 土俵に残した足跡は偉大です・・・・

 合掌・・・・。




 

 


 
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夢の中

2013-01-18 12:47:54 | 家族
 最近亡くなった

 父母や兄たちの夢をよく見る・・・・。

 兄たち2人は

 72歳で亡くなった

 父母よりも長生きできなかった・・・・・

 さぞかし

 無念だろう

 が

 成仏して欲しい・・・・・。


 そこで

 駄首 一首


 

 夢の中 お骨になった人たちが

 服着て登場

 リアルな世界 

 今朝

 起きてすぐ これどうお・・・・

 直すとこないかしら・・・・と

 昭南さんに問うたら

 いいんでナイカイ・・・・

 という つれない返事

 全く興味を示してくれない・・・・

 まっ いいケドサ・・・・。



 さてそれはさておき

 昨日 大徳さんの帰り

 私だけまたまた道の駅まで

 スタコラサッサ・・・・

 野菜は殆ど無いが

 ここのパンが

 美味しいのでございます・・・・。


 残り少なくなっている

 ライ麦パンなどをゲット




 寒く空気が澄んでいるせいか

 紋別岳も

 くっきりはっきり・・・・。


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