沖縄戦については、日本軍が死守し、最後はみんな自決したとか、沖縄の住民がよく日本軍に協力し、最後は日本軍とともに運命を共にしたと言ったお話が一般化していました。戦後軍人遺族が慰霊活動を行い、沖縄県に働きかけ、記念碑や記念施設がつくられたこと、また特に目立った沖縄の住民の行動がクローズアップされてそのお話が一般化したのではないかと思います。
しかし、最近、政府が台湾有事は日本有事と言っていること、中国の海警船などが尖閣諸島周辺やその他の沖縄の近くの海によく来ること、政府が沖縄県の防衛力を強化していることなどから沖縄県民が再び沖縄が戦場になる恐れを感じるようになり、沖縄戦の事実を調べ、住民がどのような経験をしたのか明らかにするようになりました。
明らかにされた事実は、現代の沖縄県民も知らなかったことが多いようです。沖縄戦に巻き込まれた住民の回顧録、アメリカ軍の記録映画なども豊富にインターネットで紹介されています。
有川主一陸軍中将ひきいる旅団は、沖縄住民を守るのではなく、アメリカ軍の侵攻を沖縄で防ぎ遅らせることを重視し、そのことに住民を巻き込んだため住民は日本軍からもアメリカ軍からも苦しめられる結果になりました。中学校の女性も塹壕掘りなどに駆り出されました。若い男性は徴兵されました。幼子は邪魔扱いされ、泣く子は迷惑と排除されました。軍人は戦争になると狂うと恐れられました。
アメリカ軍は一般人見境いなく砲弾や銃弾を浴びせました。軍人も一般人も、戦禍を免れるべく、必死に避難行を続け、最後は海岸などに追い詰められました。この状態になると勝負は決まり、アメリカ軍は投降を呼びかけました。住民の多くは、どうなってもいいとの思いで投降したそうですが、自殺した人もでました。
投降を決意した軍人が、味方の軍人に殺されるようなことも起こりました。
最後は有川中将も自決して沖縄戦は終わりました。
沖縄戦生き残りの人は、今も沖縄は差別されている、防衛に利用されている、日本は沖縄住民のために防衛を強化しているのではないと苦悩しています。
沖縄県民に、県にアメリカ軍基地もなく、自衛隊基地もないなら、県は平和県として戦争の不安を減らせるとの思いがあります。県は、日本政府が県の希望を無視するので、直接、アメリカと交渉しますが、アメリカは県を無視します。最近は県は中国に働きかけ、戦場にしないでくれとお願いしようとしています。沖縄県民の心が日本政府に伝わらないことは残念なことです。
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