退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

幸福な世界 9

2015-10-07 05:15:03 | 韓で遊ぶ


希望という名前のひよこ
3年前に天国へ行った夫の場所を埋めてでもしてくれるように、我が家に新しい家族が増えました。うぶ毛がふわふわした黄色いひよこです。12歳になる息子が、友達からもらったといって育てることになったひよこの名前は、ピチです。息子はお母さん鶏のように胸に抱いて面倒を見ました。ピチが寝ている時には、足音で起きるかもしれないと忍び足で歩くほどでした。ご飯も良く食べて、よく遊んでいたある日、心配していたことが起こりました。
「お母さん、ピチの具合が悪いみたいだ。早く病院へ連れて行こう。」
その瞬間、私の幼い頃の記憶がよみがえりました。具合の悪いひよこを病院に連れて行ったけれど、何もしないまま死んでしまった胸の痛い経験です。
「このまま黙ってピチを楽に送ってあげましょう。」
「、、、お母さん。なぜ僕が好きになればみんな死んでしまうの。お父さんも死んで、ピチもそうだし。僕がすごく好きなのに、、、、。」
胸にぐっさときた気持ちでした。父親を亡くした衝撃から、まだ抜け出すことができなかった息子、、、、。だからピチとの別れが大きな苦痛だったのでしょう。すべての別れを自分のせいにしてしまった息子を何とかしてなだめたいと思いました。
「ピチや、僕をおいて死んだらダメだ。目をあけてくれ。」
息子の気持ちを感じたのか、ピチは最後まで命の綱を離しませんでした。
「ピチ、お前は大丈夫だ。元気を出して。みんなお前のこと、大好きだ、、、。どうか。」
たとえピチの命がここまでだとしても、最後まで希望を捨てることはできませんでした。ずっとおなかを撫でてやり、指を水を浸してくちばしを潤してやり、ふやかしたご飯を食べさせて、、、。そうやってピチを助けるために涙と真心で送った2日後、息子が歓声を上げました。
「わぁ、元気になった、元気になった。ピチが元気になった。」
私、いつ具合が悪かったのというように起き上がり、丸く黒い目で私たちをチラチラ見るピチ、、、、。胸を覆っていた黒雲が晴れて日差しがさした瞬間でした。
「ピチよくやった。よくやった。」
この間に、さっと大きくなって無法者のように居間を歩き回るひよこのピチ、、、。何よりもふやかしたご飯が大好きな変ったヤツ。私たちにとってピチは愛する家族であり希望のもうひとつの証です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 9

2015-10-06 06:11:20 | 韓で遊ぶ


本の中で見つけた道
我が家の暮らし向きが急に傾いたのは、私が小学校4年生の頃でした。画家になるのが夢でしたが、窮乏の現実に夢は夢として終わり、8人家族が一部屋に暮らす生活は、胸を押さえつけました。建設現場の日雇いで家族の生活を支えた父、、、。曲がった背中の内に隠された父の憂いを少しでも減らせるならば、できないことはないと思いました。
「中学校を卒業したら技術を学ばなければ。それが家族のための道だ。」私は決心した通り、中学校を終えてすぐに自動車整備工場に入りました。就職すれば熟練工としてお金をたくさん稼ぐことができると思っていましたが、私の担当は雑役でした。自分の食い扶持が少なくなるのではと心配する先輩たちは、徹底して技術を隠しました。道に迷った鳥のように目の前が漠然としたある日、私に目をかけてくれる一人の先輩がいました。
「俺が、一冊本を推薦してやる。その本を勉強すれば助けになるはずだ。」
先輩の一言に、私は彷徨の沼から抜け出して、古本屋に走っていきました。何日か分の手間賃を払って、その本を手にした瞬間、トンネルの終わりから一筋の光を見た気分でした。そして2年の間、私は本の中に入って行き知識の海を泳ぎました。その間、知ることの喜びに目を開き、学びの情熱に燃え上がりました。努力した者には機会が必ず来るもの。
「ボンイル、バスの整備してみるか。お前なら簡単にできるはずだ。」
たとえ本で学んだことがすべてだとしても、私は沈着で熟練した腕前で会社から認められました。
「いい腕だね。今日から作業班長と呼ぼう。」
10年の経歴がある人かがなることができる作業班長に昇進までして、私の人生の師匠の本がありました。
「これから、もっと一生懸命やるんだ。」
私はそこで止まりませんでした。本を小脇に抱え生きるほどに、自動車に関連する書籍を全部あさり、その都度、現場の実務に応用しました。
「一体こんな技術をどこで学んだのか。本当に大した腕前じゃないか。すごく立派だ、、、。」
どんなに複雑な問題も、本を見れば答えが見えて、世の中に知られていない技術も本を通して会得することができました。
油にまみれた手で自動車と共に生きて、いつの間にか40余年、、、。しっかりした事業体の社長として、後継の養成のために大学で講義をする先生として、大韓民国の最高の整備士として、私の道を歩いて磨いてきた間、私はひと時も本を手放しませんでした。孤独な一本道の人生を共に走ってきた私の永遠なる友、それが正に本でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 9

2015-10-05 06:58:11 | 韓で遊ぶ


神父様はレスラー
今から10余年前、メキシコシティのプロレスリングの競技場で、一時代を制覇した老年のレスラーが引退試合をしました。彼は華麗でありながらも絢爛な技術で、最後まで観客を圧倒しました。すべての競技が終わった時、彼は20年目にして初めて舞台の上でマスクをはずしました。瞬間、観衆は言葉を失いました。
「皆さん、私はカトリック教会の神父のセルジオ クティエレスです。」
大きな衝撃に包まれた観客に向って、彼は正体を隠さざるを得なかった理由を告白しました。
「貧しい家で育った私は、愛されたことがありませんでした、、、。」
一時、彼は両親と社会の無関心の中で逸脱と反抗をしていた問題児でした。気を取り直して新しい人生を見つけたいと思った時、彼が最初に訪れたところは聖堂でした。ですが彼が神父に受けたものは慰めと暖かい手ではなく、冷遇と冷たい視線でした。
「そうだ、神父になろう。そして自分のように傷つく子供がないように、自分の手で世話をしよう。」
聖職者の道を歩くことにした彼は、神父になるためにイタリアへ行きました。そして数年後、神父になって再びメキシコに帰って来ました。彼はまず聖堂に保育園を設立するための計画を推進しました。うまくいくだろうという希望を抱いてはじめたことは度々失敗しました。それでも彼は屈せず、一人の力で保育園を建てました。どうにかして子供たちと寝て食べる家はできましたが、他の問題が起こりました。聖堂からもらう給料では1,2人を勉強させるのも難しい現実、、、。
お金を求めて町に出た彼は、プロレスラーになることを決心しました。レスラーとしては最上の身体条件を持っていた彼であり、覆面をすれば身の上がばれる心配がなく、錦上添花でありぴったりの職業でした。30という、若くはない年に覆面をつけてリングに上がった神父、、、。すぐれた技量と力自慢の選手としてプロレスリング界のスターになったセルジオ クティエレス。骨を惜しまない犠牲と心を尽くす真の汗は、子供たちの腹を満たしてやり、思う存分勉強させてやりました。引退を前にした53歳の老荘レスラーはすべての功労と感謝を観客に回しました。
「希望を失い彷徨する子供たちが、それぞれに夢を持って一生懸命育っています。このすべては皆さんが私にくれた愛のおかげです。本当にありがとうございました。」
彼の感動的な熱演に人々は熱い拍手で答えました。神に仕えるように、人生を不幸な子供たちのために奉仕する真の聖者セルジオ クティエレス、、、。
舞台を去る彼の後姿は、そのいつの時よりも美しかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 9

2015-10-04 06:58:47 | 韓で遊ぶ


人生の主人公
春の日の花のように、人生で一番美しい時間を送っているパクチヒョンさんは、光州広域市にある大学の新入生です。自動車学科に在学中である彼女には、また、他の人にはない特別な何かがあります。韓国産業人力公団で施行するかなりの数の国家技術の資格証です。自動車整備士資格証を含め、今まで取得した資格証だけで何と40余り。
彼女が称賛されるもうひとつの大きな理由は、その中の34個を高校生の時に取ったことです。
目標を立てて達成していく一連の過程が楽しいというパクジヒョンさん。彼女が平凡な学生から資格証少女に変わり始めたのは、お父さんが仕事を失った中学校3年の冬からでした。ジヒョンさんは人生の進路をさっと変えることにします。
「そうでなくても家計が苦しいのに私まで荷物になることはできない。専門高校に行って一日でも早く就職しないと。どこで勉強したって目標を失わなければいいわ。」
彼女はためらわず全羅南道にある実業高校に志願し、自動車学科の学生になりました。一日に3,4時間しか寝ないで学業に必要な資格試験を全部受けました。確実に勉強すればするほどに手にしていく資格証は増えていきましが、途方もなく不足する睡眠と無理な勉強で体の状態は話になりませんでした。
「あぁ、痛い、、、、。」
毎日、低いテーブルで背中を曲げて座って勉強したせいで、脊椎が曲がって痛みが出たのです。それでも体の痛みは我慢することができました。チヒョンさんが一番辛かったのは受験料の数万ウォンがなくて、がんばって準備した試験をあきらめなければならない時でした。現実の壁はその様に高かったのですが、彼女が笑顔を忘れませんでした。そんな時は手から本を離さず、奉仕活動をしながら心をなだめました。
勉強といえば勉強、奉仕ならば奉仕、、、。そうやって自分と隣人のために先に立って走ったパクジヒョンさん。2008年には全国で100人ぐらいしか受けることのできない「大韓民国人材賞」を受けました。そして、2009年新春には望んでいた大学に入学したのです。自動車と建設機械分野で最高になるというしっかりした豊富を持った新入生、、、。
現実を否定せず、その中で最善の選択をして、最高の結果を出した花のような20歳のパクチヒョンさん。この時代の美しい主役であり、自分の人生の本当の主人公です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 9

2015-10-03 05:18:29 | 韓で遊ぶ


運命を変えた1,68秒
去る1996年、アメリカの南東部の最大都市アトランタで、世界の祝典であるオリンピックが開かれた時のことです。オリンピックの花といえる陸上競技があった日。400mの決勝を前にしたスタートラインに一人の選手が歩いていきました。全世界の視線を一身に集めた男。彼はアメリカの陸上選手マイケル ジョンソンでした。すでに200m決勝で新記録を立てて金メダルを手にした男。上体をまっすぐにしてすたすたとした歩調で走る一名「スタカート走法」が彼の特技だった。彼の実力が卓越してはいたが、だからと言って2種目で金メダルを獲得するのは、無理だというのが一般的な見方だった。
「今日もマイケル ジョンソンが勝つことができるでしょうか。」
「どうでしょう。200mは短距離で、400mは中距離ですから、、、走法とか体力の按配、技術的な面で違いがたくさんあるでしょ。いずれにしても難しいのではないでしょうか。」
200mの勝負の鍵が早いスタートダッシュと最後の力だとすれば、400mは一定のスピードと持続力でした。多くの観衆が見守る中、とうとう出発の合図が鳴り広がりました。世界最高の選手たちの優劣をつけがたい伯仲の走り、、、、。みなの予想を覆し決勝線を一位で通過したのは、雷のように早い男、マイケル ジョンソンでした。短距離と中距離を超えて   世界陸上界を治めた男。彼は、胸をきゅんとさせる優勝のコメントでもう一度世界を驚かせました。
「この10年間、私は1.68秒を短縮するために血の出る努力を惜しみませんでした。その小さな差が、平凡な選手と世界的な選手を決定する秘訣でした。」
高校生の時だけ見ても、彼は200m21秒で走る、すごく平凡な選手でした。そんな彼が一躍世界的な選手として急浮上することができたのは、この10年の間、絶え間ない努力の力でした。目標に向って苦痛の日々を耐えて忍耐の時間を走ってきた男、、、。世界最高の陸上選手マイケル ジョンソンの誕生は、長い時間をかけて流した汗と情熱の賜物でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 9

2015-10-02 06:58:34 | 韓で遊ぶ


おばあさんの七転八起
運転免許の学校で講師の仕事をしていた5年前のことです。夏休みを向かえ運転免許を取ろうとする学生たちと、子供を学校に出してハンドルを握るおばさんたち、、、、。その中にやけに目に付く受講生がいました。
「こんにちわ。先生。ほほほ、、、。」
60を超えた緩いゴムひものズボンをはいたおばあさんでした。1,2ヶ月もすれば合格するのが普通の免許の試験場で、おばあさんは成績が思わしくなく、1年近くハンドルと格闘していました。
一夜漬けの勉強でさっと試験に通る人も多いのに。おばあさんはしょぼしょぼする目をこすりながら一生懸命勉強しても、毎回、試験に落ちました。やっとのことで筆記試験を通っても、おばあさんにとって道は長かったのでした。
高齢者に技能試験は難しい関門でした。うっかりとエンジンをかけなかったり、ブレーキと間違えてアクセルを踏んだり、、、失敗を繰り返して、いつも試験に落ちて、大きく心を痛めてあきらめるかと思って見守っている人が気をもむほどでした。
幸いなことは、七転八起の雑草のような粘り強い根性で、おばあさんが挑戦をやめなかったことでしょう。筆記試験の有効期間が終わって再試験を受けなければならない時も、おばあさんは一番前の席で座っている模範生でした。
試験に一回、落ちるごとに頭が白くなることも知らず、おばあさんが運転免許に固執する理由、、、。何年か前、野菜を売り歩く商売をしていた息子が交通事故に遇ったからでした。トラックを運転していた息子が足を怪我して、すぐに暮らしが危うくなったのです。直接リヤカーを引いて商売をしようかとも思いましたが、おばあさんが選んだのはリヤカーではなく運転免許証でした。
「そうだ、直接トラックを運転してみるわ。」
ですが、試験を何回も受けても返ってくるのは不合格の知らせばかり。私が講師の仕事をやめる時にも、おばあさんは免許を取得できないでいました。だから心が痛みましたが、何ヶ月か後になって、うれしい知らせが伝わって来ました。あれだけ望んでいたおばあさんの合格の知らせでした。まるで自分のことのようにうれしかったです。もう5年前のことですから、今は老練なトラック運転主になって、どこかで希望に満ちて暮らしているでしょう。
しわのある顔には香りを、老木のような手には情熱を抱いていたおばあさん、、、。生きることが苦しく疲れた時には、白い髪をなびかせて運転するおばあさんの姿を思い浮かべたりもします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 9

2015-10-01 06:21:41 | 韓で遊ぶ


美しい木
失敗した事業家が、友達と草木の生い茂った山に登りながら深いため息をつきました。
「ふぅー、、、」
事業家は友の前で虚しいことばかり話しました。
「失敗の人生だ、、、、もう希望もない、、、」
世界的な企業を作るという野望を抱いて、ひたすら前ばかり見て走ってきた人生。ですが、簡単に崩れてしまった砂の城のような夢、、、。事業家に残ったものは一生かけて返さなければならない借金と、どんなに努力しても逆立ちしても役に立たない挫折だけでした。
「こんなにたくさんの借金をどうやって返せば、、、。私はもう死んだも同然だ。むしろこのまま、さっと、、、。」
事業家の愚痴を何も言わないで聞いていた友達が、柏の木の前で立ち止まりました。
「この木をちょっと見てみろ。この木が、なぜこんなに立派に育ったと思う。ちょっと考えてみろよ。」
事業家が、むすっとした表情で木を見ながら答えました。
「この木は明らかに種から育ったものだ。だが、こんなに大きくなった。私とは生まからして完全に違う木だ。」
事業家の言葉に、友達が首を横に振りました。
「そうじゃない。」
「じゃあ、なんだ。」
友達は、柏の木を撫でながらきちんきちんと力をこめて話しました。
「それはだな。この木は、他の木よりも足りないところがたくさんあるからだ。」
事業家は不思議そうな表情で聞きました。
「足りないだって。何が足りないというのだ。」
友達はにっこりと笑って話を始めました。
「私の話をちょっと聞いてみるかい。もし、この木が他の木よりも丈夫だったとしたら、人にとっくに切られているよ。いい木を放って置くはずがないから。この木は、他の木よりも落ちたのだろう、、、。だから切られないで残ったのさ。そのおかげでこんなに大きく美しい木になることができたのさ。」
「あ、人々にこんなに気持ちのいい日陰までくれてだ、、、、。」
「だから、落胆するなよ。希望をなくさなければ、君もこの柏の木のように、いつかすばらしい事業家になることができるから。」
世の中のすべての生命が大切で価値があるのだ。たとえ、始まりはみすぼらしくても、鋼鉄のような意志と、花火のような情熱だけあれば、足りないところはいつでも埋めることができ、望むものが何であれ、手にすることができるという友達の忠告、、、。
柏の木の枝の間から差し込むまぶしい日差しが、事業家の顔に降りそそいでいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする