年末商戦

2021-12-26 11:20:26 | 日記
 そろそろお正月のおせち料理の準備をされている方も多いのではないだろうか。当方は毎年5倍ポイントの日を狙って買い物に出かけるのだが、今年は最近近所に開店したスーパーが27日を5倍ポイントと設定している為その日を予定にしている。しかしながら、本日の新聞に入っていた広告チラシが26日27日の両日5倍ポイントとしていつもより大々的にしている。そのお店が今まであった阪急オアシズさんのものでこれはオアシスさんも後から来た新規のスーパーさんとの競争が激しさを増しているのに違いないと感じた。オアシスさんが暮れ以外の日にこのような売り出しをするのは初めてで新規のお店を念頭においての顧客呼び戻し策に違いない。
 当方は新しく出来たスーパーの方に軸足を置いての日々の食料調達で日常必要なものが多くあるようで多少品質は劣るとはいえ毎日の食べ物だからそれほど贅沢をする必要はなく少しでも廉価ならばそれでいいとの認識だ。同じような方々は多いはずでその分オアシスさんに行かれた方もそれなりに新規のスーパーさんに乗り換えられた方もいるようだ。売る方も売ってやっているとの殿様商法から買ってくださいとの方に切り替えは消費者側からみれば結構なことで新規出店のお店に感謝したい。
 新規出店のお店の名は「スーパーマルハチ」と言って5倍ポイントデーと3倍ポイントデーがあり、マルハチに因んで8日は5倍ポイントと27日も5倍ポイントデーになっていて、その間3倍ポイントデーが4日~5日ほどある。あす27日はどちらに行こうかと家内と相談したい。今年は孫娘3人が来るという。2年ぶりの再会で随分と背が伸びて大人らしくなっていることだろう。

冬至

2021-12-22 09:22:04 | 日記
 今日は一年の内で最も昼の時間が短いとされる24節季のひとつの冬至だ。朝の日の出の時刻は7時3分で日の入り時刻は16時53分(神戸海洋気象台)となっている。12月1日から12月8日頃までは日の入り時刻が16時48分だったからそれまでよりも5分ほど日の入り時刻が延びている。その分朝の日の出時刻が遅くはなっているが春が確実に近づいている証だ。これからは日に日に夕陽の時刻が延びてきてくれるのが嬉しい。
 毎年4月から6月までの一番きれいな美しい季節を満喫しているのだが、夏至がきてこれから秋に向かっていくのかと何となく寂しい思いがするのだが、今日の冬至はそれとは反対の気分を今持ちながらのブログを思いつくままパソコンに書き込みながらこれから寒さが本格化するが、太陽の陽射しが日に日に強くなっていく様が何となく嬉しい気持ちで今日を迎えた。

義士祭

2021-12-14 18:45:46 | 日記
 12月14日は赤穂四十七士の吉良邸討ち入りの日だ。何年か前に赤穂義士祭を見に行ったが大変な人出であった。サラリーマン時代、東京本社に転勤になった昭和49年だったか、まだ小学校1年生になった長男と5歳の次男と家内と共に東京高輪泉岳寺の浪士のお墓に詣でた。
  赤穂浪士となればこれまでのNHKの大河ドラマが真っ先に思い起こされるが私がいちばん印象に残っているのは堺屋太一原作の「峠の群像」で大石内蔵助を演じた緒形拳さんを挙げたい。無口であまりしゃべらない内蔵助をうまく巧みに演じておられたような緒形さんが頭の中に残っている。まだビデオデッキが一般化しなかったと時でほとんどの皆さんは録画をお持ちではない時代ではなかったかと思う。あの頃はサラリーマン黄金時代だったかと。年末は30日に会社の事務所を大掃除して事務所の机の上に白のシーツを掛けみんなでお酒を酌み交わしてこの1年を振り返って騒いだものだった。よい時代だった。今ではこのような光景は絶無であろうか。忠臣蔵の物語もここしばらくは復活しないようなそんな世の中の姿である。

国が隠した捕虜第1号

2021-12-10 13:10:23 | 日記
 真珠湾攻撃の際に出撃した5隻の特殊潜航艇(所謂人間魚雷)の内、ひとりの生き残りが米軍の捕虜となって戦後まで生きておられる。酒巻和男さんでその息子の酒巻潔さん(72)が父の残した手記を構成の残したいと父の心情を思い決意された。
 酒巻和男さんの出身地は愛媛県伊予市で三机湾の特殊潜航艇に乗船して出撃した10人の写真を埋め込んだ新しい石碑が完成した。有志がクラウドファンデイングを募って建立したものだ。旧海軍は酒巻さんの捕虜を知っていながら公表しなかった。酒巻さんは捕虜となってそこで生活しながら米国の個人を尊重する社会を次第に肯定するようになり戦後帰国してトヨタ自動車会社に勤務された。生きることの大切さを説いて「死んで神なる、生き残ったら存在を消し去る戦争はおかしい」として手記を広く読んで欲しいと父の気持ちを代弁されたようです。
 特殊潜航艇は2人の乗務となっていてひとりでは途中で心変わりを警戒した軍部の方針で2発の魚雷を装備して帰還不能な片道燃料だった。酒巻さんの艇は途中で航行不能になり泳いで脱出し浅瀬に座礁して捕虜となったとか。もうひとりは途中で見失ったようだ。

「軍神」の一人の手紙

2021-12-09 09:51:57 | 日記
 80年前の旧日本軍による米真珠湾攻撃の際の「特殊潜航艇」の乗組員9名の内のひとりの上田定さん(当時25歳)書き残した手紙が中国山地の小さな建物に収められているニュースが新聞に出ている。日付は1941年12月7日で「両親様の長生きをお祈り申し上げます」というもので、ハワイ真珠湾での奇襲攻撃で25歳の生涯を閉じた。
 上田さんは1916年(大正5)農家の長男として生まれ海外に憧れ海軍に入隊した。ハワイ真珠湾攻撃で2本の魚雷を装備した特殊潜航艇の乗組員に選ばれ出撃し、戦死して9軍神のひとりとなり軍より「史上空前の壮挙を敢行し任務を完遂せる後艇と運命を共にせり」と賛美。2等兵曹から2階級特進となった。
 終戦後、空気は一変する。「同じ戦死者がいる中、上田さんのみがあがめられるのはどうか」という声が上がり始める。
  地域の戦没者遺族会が中心となって寄付を募り70年12月8日に上田家の敷地に慰霊塔を建立し、遺品館も完成して上田さんの遺品を納められた。
 上田家の神棚にはハワイに慰霊に訪れた際に「兄が生きた証し」と甥の賢治さんの父が持ち帰った浜の砂も供えられている。