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青蓮院 京都府立医科大学と縁の深いお寺

2017年04月04日 12時51分04秒 | 京都第一赤十字病院

青蓮院(青蓮院門跡)   京都府立医科大学とゆかりのあるお寺

 

しょうれんいん と発音します。

僕も最近まで、せいれんいんと思ってました。

 

天台宗の京都五ヶ室門跡の一つ。伝教大師以来の比叡山上の住坊「青蓮坊」が発祥で、その京都での里坊として天台座主行玄が平安後期に院の御所に準じて建立したものです。「青蓮院」と称した。平安末期からは門主に代々入道親王や法親王を迎え、明治に至ります。俗に、粟田御所と呼ばれていいます。法然や親鸞を庇護したので浄土宗や浄土真宗の聖地にもなっています。天明の大火(1788年)の際、後桜町上皇の仮御所になった。そのため境内地全域約1万坪は国の史跡に指定され、宸殿、小御所、熾盛光堂等の建物と池泉回遊式の庭園がある。日本三不動の一つ青不動明王(国宝)を有し、篤く信仰されている。門前の楠の大木は京都市の天然記念物になっています。東山山頂には飛地境内の大日堂と将軍塚があり、庭園やそこからの市街の展望もすばらしいそうです。

 

 

付記

京都府立医科大学の設立までの話

 

明治政府が成立し、天皇が東京に行かれ、首都でなくなった京都はさびれて活気を失い、人心は大きく動揺しました。この京都を衰亡から救ったのは参事(のちに知事)槇村正直、顧問山本覚馬、青年蘭方医明石博高らで、彼等は西欧文明を積極的に摂取することに全力を傾注しました。
 廃仏毀釈の風潮と戦乱の疲弊感の中で社会事業に活路を見出そうとしていた僧侶達は、明石らと相集って、発起人となり、明治4年病院建設を府に出願し、彼等は府下各分野からの資金調達に奔走し、一般府民の浄済、管内医師や薬舗からの助資金、花街に課した冥加金等による資金は5万に達したそうです。


 京都療病院はこのような気運の中から生まれた病院であり、京都における近代医療と近代医学教育の幕開けとなりました。京都療病院の名称は聖徳太子が悲田院、施薬院、療病院の三院を創設された故事にならって命名されました。

ヨーロッパ医学の導入と医学教育

 療病院設立に伴い招聘された初代外国人医師はドイツ人の名医ヨンケル(Junker von Langegg)であり、明治5年9月から木屋町の仮療病院で診療を開始し、11月12日より粟田口青蓮院内の仮療病院で解剖学の講義を開始した。2代目のオランダ人医師マンスヘルト(C.G van Mansvelt)は医学教育の系統化に努力し、又、療病院長設置の必要性を勧告した。初代病院長には半井澄が就任しました。3代目はドイツ人医師ショイベ(Heinrich Botho Scheube)で、診療研究に熱心で、脚気病、寄生虫学に大きな業績を残しました。この3人の外国人医師は、療病院に近代医学を導入し、病院の発展と医学教育に多大の貢献をしました。

 

 明治12年4月16日には医学校も併設され、初代校長に萩原三圭が就任し、以後半井澄、猪子止戈之助、加門桂太郎、島村俊一と続いた。明治32年京都帝国医科大学(現在の京都大学医学部)が設立されると優秀な人材が転出し、一時存亡の危機におちいりましたが、わ第5代島村俊一校長は医学校部の改築改良を竣功し、他日、京都府立医科大学に昇格する基礎を固めました。

そして、現代、陽子線ガン治療装置の導入へ向けての工事が進み、近畿地方では、兵庫、大阪に次いで3番目の施設になります。

 


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