京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

高松神明神社

2023年10月27日 07時36分00秒 | 日記
 高松神明神社の歴史は古く、平安時代延喜14年(914)に醍醐天皇の第10皇子として、高明親王が誕生され、延喜20年(920)に"源"の姓を賜り臣籍降下されています。





左京の三条三坊に邸宅として「高松殿」を造営されました。

同時に伊勢から天照大神を勧請され「高松殿」の鎮守の社としてお祀りされたのが高松神明神社の始まりです。

「高松殿の旧跡にして、御鎮守の御社なり」と古記録にのこっています。





久安2年(1146)には後鳥羽上皇の命により高松殿の地に近衛天皇の御所を造営し、「高松内裏」となっています。

久寿2年(1155)には近衛天皇が崩御され、後白河天皇が「高松内裏」で、即位されています。





保元元年(1156)の「保元の乱」では、後白河天皇方の本拠地となり、源義朝や平清盛らが参集して、崇徳上皇方の「白河北殿」へ攻め込みました。
夜襲が成功して戦闘は一日で終わり後白河天皇方が勝利しています。

保元3年(1158)には後白河天皇は二条天皇に天皇の位を譲位され、ここ高松殿を、「院御所」とされました。

平治の乱(1159)で「院御所」は焼失しましたが、残った内待所を「高松神明社」とされましたが鎌倉時代後期には廃宮となり、神明神社だけが残りました。

その後も広大な境内を有していましたが、天正18年(1590)に豊臣秀吉による都市改造で釜座通、小川通が開かれ、境内地が半分に狭められました。









境内には、石仏の地蔵菩薩がお祀りされています。
江戸時代寛政6年(1794)に高松神明宮宝性院の社僧が紀伊国の伽羅陀山善名称院(真田庵)にお祀りされていた真田幸村公の念持仏を拝領し、三間四面の地蔵堂を建立しました。

「幸村の知恵の地蔵尊」として、今も大切に
お祀りされています。





狭くなった境内ですが、稲荷神社や天満宮などの末社が鎮座されています。

平安時代の末期に政争の舞台となった場所です。