油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

職人になりたい。  その6

2021-04-05 21:42:29 | 小説
 街でたまたま見かけた女性が自分に声を
かけてきた。
 そのことが、翔太を大変喜ばせた。
 S店の森田店長の願いにも通じることで
とても幸先がいいと、翔太は思う。
 彼女はどうやらS店の常連客らしい。
 これからも翔太が店で働いているかぎり、
今回のような出会いがいくども自分の身に
起きるだろう。
 このようにしてひとりふたりと知り合い
が増えていけばいいなと思う。
 むずかしいのは、これから先。翔太は以
前から異性の友人、もしくは恋人を持つこ
とを願っていた。
 (水商売やってるって自分でおっしゃる
けど、ずいぶんとしっかりしていらっしゃ
る。この人を、これ以上、足止めするには
どうしたらいいだろう。断られたら、はい
そうですか、と潔くいえばいいことだ)
 彼はそう思い、一計を案じた。
 ここ二、三日、翔太が気になってしかた
がないこと。
 夢の中にでてきたろくろ首の女は、まあ
まぼろしと考えるとして、それから、これ
は現実のことだが、ある日の午後、アパー
トの自分の部屋のドアを、誰かが、トント
ンとノックした。 
 それらが、自分の脳裏に、鮮やかに焼き
付いている。
 夢の女とドアをノックした人間が同一人
物か、そうでないか。
 人が聞いたら笑うかもしれない。
 自分で考えているぶんには、だれに迷惑
をかけるわけでもない。
 翔太は、なんとかして、確かめてみたい
と思った。 
 それじゃね、とくるりと体をまわし、改
札口に向かおうとした女の背中に、翔太が
おずおずと声をかけた。
 「あのう、すみません、つかぬことをお
うかがいしますが……」
 えっ、と言って、彼女は翔太のほうにぐ
いっと首をまわした。
 翔太はとっさに、ろくろ首を思い出す。
 「あっ、あのう、ゆめの……」
 そう言いかけて、翔太は、あやうく二三
歩あとずさりしそうになったが、懸命にこ
らえた。
 女は翔太のもの言いがおかしかったのか
ふふっと笑った。
 「ゆめ、夢がどうしたの。わるい夢でも
見たのかしら。きっと、あなた、疲れてる
んでしょう」 
 「ちょっとね、わたしね……」
 そう言いながら、彼女は持っていたハン
ドバッグのチャックの口をジーッと音立て
て開けた。
 キャビンの赤い箱の中から、紙巻たばこ
を一本取りだすなり、紅い唇でくわえた。
 金色のライターの発火装置を、細くて白
い指先で器用にあやつりながら、上手に火
を作った。
 女がほほをへこませると、見る間にたば
この先が燃え上がる。 
 「なあに、その深刻そうな顔は?いった
いどうしたの。わたしね、あんまり時間が
ないの。これから列車に乗るのよ」
 たばこの煙を吐きながら、彼女は言った。
 翔太はせき込みそうになるのを、ぐっと
我慢した。
 「す、すみません。いいです、いいです。
ちょっと、お話させていただきたいと思っ
ただけなんです。ぼ、ぼく、この街に知り
合いがいませんから」
 翔太は正直に自分の思いを口にした。
 「へえ、そうなんだ。あなた、さびしい
身の上なんだ。とっても若いし、ね。そう
じゃないのかなって、思ってたの、前から
すっとね、わたし」
 「そうだったんですか」
 「ええ、そうよ」
 スパッとトマトでも切るような調子で彼
女は言った。
 バッグから、空き缶を取り出した。
 吸いさしのたばこの燃えた部分を、飲み
口の付近でもみ消すと、
 「行きたいところもあるけど、まあ今日
でなくてもいいの。じゃあ、ちょっと付き
合ってあげる。寒いしね。ちょっといっぱ
いひっかけてあったまりたいわ。あなたは
わたしのわきでラーメン食べるといいわ。ひ
ょっとして未成年みたい」
 「いいえ」
 「そう、良かった」
 女は、あずき色のコートの左手袖口から、
ぬっと彼女の手を突き出し、翔太の右手を
つかんだ。 

 
 
コメント
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