油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

職人になりたい。  エピローグ

2021-04-17 09:46:25 | 小説
 自転車のペダルを必死に踏みこみ、逃げ去っ
ていく翔太を、女は無理に追わなかった。
 ただ、たばこを口にくわえ、ふふと笑った
だけできびすを返した。
 なぜか、翔太の目に涙がにじんだ。
 それから一週間が過ぎた。
 翔太は、以前より、仕事に身を入れるよう
になった。
 いつまでも、厨房のすみで雑用みたいな仕
事ばかりと思っていたが、そんな気持ちがき
れいさっぱりなくなった。
 おかげで、以前のように、まめにケガしな
くて済んだ。
 「二名さま、ごらいてええん」
 先陣を切るリーダーの鈴木の声にあわせ、
 「いらっしゃいまあせ」
 張りのある声で、森田と神山がこたえた。
 やはり、翔太はワンテンポ遅れた。
 男は五十がらみだろう。眼鏡をかけている。
若い女性をひとり、ともなっている。
 ふたりは、厨房の中が一目で見渡せるとま
り木に、ならんですわった。
 翔太は女のほうが気になる。自分と同じく
らいの年まわりだと気づいたからだ。
 「気合いを入れよう」
 森田が、小声で言う。
 リーダーの鈴木と教育係の神山は、それに
は応えない。ただ、空っぽのはらの中によく
こなれた食べ物を入れられた子どものように、
眼を輝かせて動きだした。
 こんなことは一年に一回あればいい程度な
んだがなと、翔太は気になった。
 翔太の動きがとまったので、煮出した汁の
あたたまり加減をみていた神山が、はや足で
やってきて、翔太の太ももを、靴でけった。
 「見られてるかんな。こころして働け」
 「はい」
 翔太は、それだけをつぶやくように言って
から床を見た。
 (神山さんは何が言いたいんだろう。今来
店したばかりの客がどうしたって……、自分
にはただの観光客のふたり連れのようにしか
思えないけど)
 男から手渡されたお品書きを、女は何度も
くり返して見ている。
 男が、女のほうに顔を突き出すようにして
何か言った。
 そのしぐさが、何とも言えず艶っぽく、翔
太には思えた。
 嫉妬の念がわいてくる。
 「こら、しょうた、なにみてる。しっかり
しろ」
 翔太は何もいわず、一度だけ、うんと深く
うなずいてみせた。
 「塩ラーメン、ふたつね」
 男は厨房のほうを向き、それだけ言った。
 そしてまた、女の顔に目線をもどした。
 「ご注文いただきました。塩ラーふたつ」
 森田の発声に、鈴木と神山のふたりがすか
さず、
 「ありがと、ございまあす」
 大声で言った。
 翔太は言いよどんだ。
 (失敗だ。また叱られる。だけど、いくら
怒られてもいいんだ。あの子が、あの日、お
れのアパートの部屋を訪れたんだ、そんない
いまぼろしを見てたんだから……)
 翔太のほほが青ざめている。
 それは彼自身も気づいていた。しかしそれ
は一瞬のことで、すぐにぽっぽぽっぽとぬく
もってきた。
 厨房のなかの三人の動きが、いつもよりて
きぱきしている。
 「はいっ塩ラーふたつ、出来上がりました」
 森田が言うと、鈴木が森田のそばに寄って
行った。ひとつひとつ、両手を使い、ていね
いに客の前のたなまで運んだ。
 客の男も、両手を使った。まるでこわれも
のを扱うように、湯気の立つうつわを女のす
ぐ前に置いた。
 女が嬉しそうに箸を動かしだした。
 翔太は、その様子に、笑みを浮かべた。
 「なっ、うまいだろ」
 男が念を押すと、女がうんと首を振った。
 食事が終わり、男は支払いを済まそうとレ
ジに向かう。
 めずらしいことに、森田が動いた。
 金を受け取っている森田に、男が二言三言
語りかけている。
 そのたびに、森田は頭を下げた
 「お世話さま」
 男はそう言い、女を店に残したまま、店の
暖簾をくぐった。
 翔太は不審に思った。
 「おい、なんだか、あの子、お前に用があ
るってさ」
 森田が、翔太のわきに歩み寄ってくるなり
そう言った。
 翔太は、ええっと言ったきり、何が何だか
わからなくなった。
 「何してる。早く行ってやれ。おれもなん
だかわからんが、ラーメンつうのDさんがおっ
しゃるんだ」
 森田は怒ったふうに言ったが、顔は笑って
いる。
 「はあ……」
 女が席を立ち、玄関口に向かって歩きはじ
めた。若いだけに、動作がきびきびしている。
 翔太はぬれた両手を、エプロンでふこうと
した。だがどういうわけか指がからまり、う
まくぬぐえない。
 妙に、口がかわいた。
 誰かが、翔太の尻をつついた。
 「いいから、はやく、はやく、勝手口から
出ろ」
 神山が笑顔で命令した。
 
 
 
  
 
 
コメント (2)
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