会話はそれ以上つづかず、M男は腰をくの
字に曲げて体勢を低くすると、カウンターの
下にある、店内へとつづく戸を開けた。
しかし、しかしである。
M男は、店内の黄色味を帯びた淡い光の下
にあらわれないのである。
Kは心配になってきた。
(ええっ、そんな……、店長さん、どうし
たの、一体……)
Kはつま先だったり、首を大きく振ったり
して、こころの中でM男に呼びかけた。
(まあ、子どもじゃないんだし、店内のど
こかにはいる。さっきだって、わたしが到着
するまでは店内にいるのが鉄則なのに、外に
出ておられたようだったし……)
Kはうつむき、洗い場に積み重ねられた油
まみれの食器などを、きれいにする作業に没
頭しだした。
「かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃ
あはらみたじ、しょうけんごおうんかいくう
いっさいくうやく……」
Kは誰にも聞き取られないよう、小声で般
若心経の一節を唱え始めた。
次第に速くなる。
「とにかくスピードが大事なんだよ。英語
教科書をできるだけ早く音読することだって
いい。頭の回転が良くなるからね」
Kにとっては仕事の大先輩であり、文学の
師匠でもある、A塾の塾長の教えを忠実に守っ
ている。
だしぬけに、Kの脳裏に、A先生のにこやか
な顔がふわりとあらわれた。
Kは、我知らず、微笑してしまった。
「Kさん、ひょっとして僕のこと、心配さ
れました?」
身近でM男の声がして、Kは驚いた。目鼻立
ちのくっきりした顔が、口元に笑みをたたえ
ている。
「あれれ、ずっとそこにおられたんですか、
まあ、言ってみれば、あなたはおとうとみた
いなものですし……」
「弟?おもしろいこといわれますね」
「いけませんか?」
「いいえ、まあ大丈夫ですが」
「Kさんって、何かうれしそうでうらやまし
いです」
「すみません、気が付かずにいて。そう見
えますか」
「はい。充分に」
「Kさんって、あんまり笑われないですよ
ね。先だってわたしがあなたのご実家を訪ね
た折にも、おふたりのお子さんを叱ってばか
りで。彼らが初対面のわたしに興味があるの
は当たり前ですし、わたしにじゃれついたっ
て、放っておかれるといい。まだ五歳や二歳
じゃありませんか。もっとのびのびと育てて
やればいいんじゃないかって思ってしまいま
したよ」
「これは痛いところをつかれました」
Kは、泡だらけの右手で、頭をかいた。
「わたしはBOKUが好きなんです。山から
切り出したばかりの材木のことです。これか
らどのようにも細工できるでしょ。大きな可
能性を持っているのです」
Kは、ふたたび、A先生の言葉を思い出した。
(それにひきかえじぶんはどうだろう。も
はやBOKUとは呼べないな。でもな、子ども
が好きだし、毎日こうやって、子どもと読み
書きそろばん、じゃなかった。算数を勉強し
ている)
Kは、自分の生きる姿勢を、なんとか合理
化しようと試みた。
彼の二十代の頃は、全国の高校生や大学生
のほとんどが政治に関心があった。
七十年安保条約の動向に、若者たちの視線
が向けられていた。
学生の本分は学業。人はいつでも冷静でい
るべし。
自分自身が利口にならなきゃ、世の中の体
制なんぞ、いくら変わろうとむだなこと。
ひとりひとりが善く生きるほかに、社会が
住みやすくなるはずがない。
そんな単純なことを、なかなか判ろうとし
ないでいた。
「店長さんの夢はなんですか」
「もちろん、店を一軒、持つことですよ」
「どんどん新しいことに挑戦ですね」
「ええ、まあ……」
M男の顔色がふいに変わったのをKは見逃
がさなかった。
字に曲げて体勢を低くすると、カウンターの
下にある、店内へとつづく戸を開けた。
しかし、しかしである。
M男は、店内の黄色味を帯びた淡い光の下
にあらわれないのである。
Kは心配になってきた。
(ええっ、そんな……、店長さん、どうし
たの、一体……)
Kはつま先だったり、首を大きく振ったり
して、こころの中でM男に呼びかけた。
(まあ、子どもじゃないんだし、店内のど
こかにはいる。さっきだって、わたしが到着
するまでは店内にいるのが鉄則なのに、外に
出ておられたようだったし……)
Kはうつむき、洗い場に積み重ねられた油
まみれの食器などを、きれいにする作業に没
頭しだした。
「かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃ
あはらみたじ、しょうけんごおうんかいくう
いっさいくうやく……」
Kは誰にも聞き取られないよう、小声で般
若心経の一節を唱え始めた。
次第に速くなる。
「とにかくスピードが大事なんだよ。英語
教科書をできるだけ早く音読することだって
いい。頭の回転が良くなるからね」
Kにとっては仕事の大先輩であり、文学の
師匠でもある、A塾の塾長の教えを忠実に守っ
ている。
だしぬけに、Kの脳裏に、A先生のにこやか
な顔がふわりとあらわれた。
Kは、我知らず、微笑してしまった。
「Kさん、ひょっとして僕のこと、心配さ
れました?」
身近でM男の声がして、Kは驚いた。目鼻立
ちのくっきりした顔が、口元に笑みをたたえ
ている。
「あれれ、ずっとそこにおられたんですか、
まあ、言ってみれば、あなたはおとうとみた
いなものですし……」
「弟?おもしろいこといわれますね」
「いけませんか?」
「いいえ、まあ大丈夫ですが」
「Kさんって、何かうれしそうでうらやまし
いです」
「すみません、気が付かずにいて。そう見
えますか」
「はい。充分に」
「Kさんって、あんまり笑われないですよ
ね。先だってわたしがあなたのご実家を訪ね
た折にも、おふたりのお子さんを叱ってばか
りで。彼らが初対面のわたしに興味があるの
は当たり前ですし、わたしにじゃれついたっ
て、放っておかれるといい。まだ五歳や二歳
じゃありませんか。もっとのびのびと育てて
やればいいんじゃないかって思ってしまいま
したよ」
「これは痛いところをつかれました」
Kは、泡だらけの右手で、頭をかいた。
「わたしはBOKUが好きなんです。山から
切り出したばかりの材木のことです。これか
らどのようにも細工できるでしょ。大きな可
能性を持っているのです」
Kは、ふたたび、A先生の言葉を思い出した。
(それにひきかえじぶんはどうだろう。も
はやBOKUとは呼べないな。でもな、子ども
が好きだし、毎日こうやって、子どもと読み
書きそろばん、じゃなかった。算数を勉強し
ている)
Kは、自分の生きる姿勢を、なんとか合理
化しようと試みた。
彼の二十代の頃は、全国の高校生や大学生
のほとんどが政治に関心があった。
七十年安保条約の動向に、若者たちの視線
が向けられていた。
学生の本分は学業。人はいつでも冷静でい
るべし。
自分自身が利口にならなきゃ、世の中の体
制なんぞ、いくら変わろうとむだなこと。
ひとりひとりが善く生きるほかに、社会が
住みやすくなるはずがない。
そんな単純なことを、なかなか判ろうとし
ないでいた。
「店長さんの夢はなんですか」
「もちろん、店を一軒、持つことですよ」
「どんどん新しいことに挑戦ですね」
「ええ、まあ……」
M男の顔色がふいに変わったのをKは見逃
がさなかった。