いつもと同じ一日だと、Kは思ったが、少
し違った。
その日の宵、Kは少々、おなかの調子がわ
るくなった。
グルグルとおなかが鳴る。
腸が動いているようだ。
困ったことに、授業中トイレにかけこみた
くなってしまった。
そんな症状がときどき起きるようになって
いた。
Kはみたてに定評のあるT町通りにある内科
の先生の門をたたいたことがあった。
「あんたは、ちょっとこれ、のんだがいい」
白い玉っこを、三日分ほど渡された。
効能かきを見て、Kは、へえっと目を丸く
した。
(おら、ちょっとばかり、どこかで無理し
てるのかもな。先生みたく利口じゃないし瞑
想もやらない。たいして本も読まない。まだ
まだ修行が足りないや)
「被害妄想の気があるから」
A塾の先生に、以前、注意を促されていた
ことがあった。
歯に衣着せない物言いが、Kにとってとて
も新鮮だった。
Kはちょっと心配事が起きると、それをい
つまでも引きずる。するとしだいにそれが膨
らんできて、お化けのようになる。
虚なのに実になる。
とても扱いにくい病である。
Kの女親もとりこし苦労が多かった。
くよくよといつまでも考え込み、しばしば、
「ああっとへどがでそうになる」
と、嘆いた。
大人の世界は濁りに濁っている。
とても一筋縄じゃまろけない。
狭い国土に一億人以上の人たちが暮らして
いる。まるで狭い水槽に、小さな魚がものす
ごくたくさんいるようなものである。
いさかいが多くなる。
それは人の世も同様で、なかなか住みやす
い社会をというわけにはいかない。
理想を追いやすい若いころは、互いに、簡
単にはほかの考え方を認められない。
Kも学生時代、ある政党のシンパだったり
した。狭い人間関係が、Kをして、憂鬱な性
分にするに充分だった。
Kにとって、A塾の先生に会えたことは、大
変重要だった。
「前後ありと言えども、前後裁断せり」
「どういうことでしょう」
「道元さんのお書きになった、正法眼蔵随
聞記を読むといいよ」
「しょうぼうげんぞう、ですか」
「そう、禅宗の一方の旗がしらだよ」
「はあ」
自分のお金で、その本を買い求め、読みだ
すまでにどれくらいの月日がかかったろう。
まして、その言葉の意味を、本当にKが理
解するに至るまでの歳月と言ったら、あまり
に長かった。
まさに、猫に小判……。
Kは、ふと、現実の世界に立ち戻った。
じぶんがいま、店の洗い場の前に立ってい
るのに気付いた。
体がふらついた。
洗い場にむぞうさに積み重ねられた使用済
みの食器類をみて、なぜだかいやな気がした。
眠い目をこすった。
いざ、スポンジに、ねっとりした液体を垂
らした。
危ないからグラス類を、まず初めにかたづ
けようと、ウイスキーグラスの内側に、右手
の指を二三本差し入れた。
とたんにバリっと音がした。
赤い色が、グラスの内側に広がる。
それが指が傷ついたことによるものだと気
づくのに、時間がかかった。
「ほら、これ。よくやるんですよね。これ
でしっかり指をおさえて」
店で使う、真っ白い布切れを惜しげもなく
差し出してくれるM男の声がありがたかった
が、Kは気が小さい。
じぶんのズボンから取り出した黒っぽいハ
ンカチを、傷ついた指にぐるぐると巻いた。
し違った。
その日の宵、Kは少々、おなかの調子がわ
るくなった。
グルグルとおなかが鳴る。
腸が動いているようだ。
困ったことに、授業中トイレにかけこみた
くなってしまった。
そんな症状がときどき起きるようになって
いた。
Kはみたてに定評のあるT町通りにある内科
の先生の門をたたいたことがあった。
「あんたは、ちょっとこれ、のんだがいい」
白い玉っこを、三日分ほど渡された。
効能かきを見て、Kは、へえっと目を丸く
した。
(おら、ちょっとばかり、どこかで無理し
てるのかもな。先生みたく利口じゃないし瞑
想もやらない。たいして本も読まない。まだ
まだ修行が足りないや)
「被害妄想の気があるから」
A塾の先生に、以前、注意を促されていた
ことがあった。
歯に衣着せない物言いが、Kにとってとて
も新鮮だった。
Kはちょっと心配事が起きると、それをい
つまでも引きずる。するとしだいにそれが膨
らんできて、お化けのようになる。
虚なのに実になる。
とても扱いにくい病である。
Kの女親もとりこし苦労が多かった。
くよくよといつまでも考え込み、しばしば、
「ああっとへどがでそうになる」
と、嘆いた。
大人の世界は濁りに濁っている。
とても一筋縄じゃまろけない。
狭い国土に一億人以上の人たちが暮らして
いる。まるで狭い水槽に、小さな魚がものす
ごくたくさんいるようなものである。
いさかいが多くなる。
それは人の世も同様で、なかなか住みやす
い社会をというわけにはいかない。
理想を追いやすい若いころは、互いに、簡
単にはほかの考え方を認められない。
Kも学生時代、ある政党のシンパだったり
した。狭い人間関係が、Kをして、憂鬱な性
分にするに充分だった。
Kにとって、A塾の先生に会えたことは、大
変重要だった。
「前後ありと言えども、前後裁断せり」
「どういうことでしょう」
「道元さんのお書きになった、正法眼蔵随
聞記を読むといいよ」
「しょうぼうげんぞう、ですか」
「そう、禅宗の一方の旗がしらだよ」
「はあ」
自分のお金で、その本を買い求め、読みだ
すまでにどれくらいの月日がかかったろう。
まして、その言葉の意味を、本当にKが理
解するに至るまでの歳月と言ったら、あまり
に長かった。
まさに、猫に小判……。
Kは、ふと、現実の世界に立ち戻った。
じぶんがいま、店の洗い場の前に立ってい
るのに気付いた。
体がふらついた。
洗い場にむぞうさに積み重ねられた使用済
みの食器類をみて、なぜだかいやな気がした。
眠い目をこすった。
いざ、スポンジに、ねっとりした液体を垂
らした。
危ないからグラス類を、まず初めにかたづ
けようと、ウイスキーグラスの内側に、右手
の指を二三本差し入れた。
とたんにバリっと音がした。
赤い色が、グラスの内側に広がる。
それが指が傷ついたことによるものだと気
づくのに、時間がかかった。
「ほら、これ。よくやるんですよね。これ
でしっかり指をおさえて」
店で使う、真っ白い布切れを惜しげもなく
差し出してくれるM男の声がありがたかった
が、Kは気が小さい。
じぶんのズボンから取り出した黒っぽいハ
ンカチを、傷ついた指にぐるぐると巻いた。