油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

若がえる。  プロローグ

2023-11-14 22:05:10 | 小説
 Mは東京にむかうT新幹線の車両に乗って
いる。
 終着駅に到着するまでにいくども停まる。
 彼には青年から壮年にかけ、仕事に追われ
てばかりで、ろくに自分というものを見つめ
られなかったという悔しい想いがあった。
 会社を退職し、ようやく初老をむかえた昨
今になってはじめて、学生時代に行きつ戻り
つした土地を訪れたいと願った。
 若かりし頃の自分のこころの内奥をふりか
えってみたかった。
 (でもなんだか笑っちゃうよな。昔を恋し
がったってさ。無理なんだよな)
 Mはふふんと鼻で笑った。
 長いトンネルをぬける際の暗がりのなか、
窓に映るのはほとんどトンネルの壁ばかりだ
が、それでもおぼろげに自分の顔らしき影が
入り込んでいる。歳ばかり取った生彩のない
男が……。
 平日の午後、Mのいる車両はがらんとして
いた。
 ふたり掛けの席にひとり、なにもかも忘れ
たような気分で、Mは秋色濃い外の景色に視
線を走らせた。
 あまりに早い動画を観ているようで、長く
は見られない。
 (退職してから、どれくらい時間が経った
ろう。ひとり息子がようやく身をかためてく
れたし、やれやれだ。家族三人だった。しか
し、ここにこうして一人ぽっちでいるのには
わけがある。それまで風邪ひとつひかなかっ
た家内が急におもい病気をわずらったかと思
うと、たった三か月寝たきりになっただけで
身まかってしまった……)
 突然、誰かがきゃっと叫んだ。
 Mはうつむいていた顔をあげ、まわりを見
つめた。
 三歳くらいの男の子が通路をかけてくる。
 「ぼうや、転ぶとあぶないからね」
 Mが優しく声をかけると、その子は立ち止
まり、Mのほうを向いた。
 にこにこ笑っている。
 Mはふと、ひとり息子の幼いころを思い出
した。
 自然と笑いがこみあげてくる。
 (あの頃は妻もおれも若かったな……。と
ころで、この子の親たちは一体どこにいるん
だろ。この車両に乗り合わせていないとすれ
ば……、ずいぶんと無責任でのんきな話だ)
 「ここにすわってみるかい」
 Mがその子に自分の両手をさし出した。
 その子はうんと答えて、さっさとMの膝の
上にすわった。
 ときどき彼はMの顔を見あげる。
 安心したように、また、にこりと笑う。
 Mの鼻腔を、彼の匂いが刺激する。
 まるで若草のようだとMは思い、両目を閉
じた。
 どれくらい時間が経ったろう。
 長い時間が経ったように思えたが、本当は
ほんのひとときだったのかもしれない。
 「ごめんなさいね。この子ったら、ほんと
世話がやけるので……、困ります」
 若い女性の声がして、Mは目を開けた。
 困るのは俺のほうだぞ。
 そう言いたいが、Mは黙ったままでいた。
 その子をそっと、若い母親に引き渡した。
 (小さなからだ、やわらかい手足……)
 Mはしばらく、その子の余韻を楽しんだ。

 
 

 
 
 
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« たそがれて……、今。 | トップ | 若がえる。  (1) »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (sunnylake279)
2023-11-15 09:38:13
おはようございます。
新しい物語、映画のように読ませていただきました。
列車の中の様子が、はっきりと目に浮かびました。
Mの心のつぶやきも、自然に心に入ってきました。
小さな男の子の可愛らしさは格別ですね。
続きを楽しみにしています。
いつもありがとうございます。
返信する

コメントを投稿

小説」カテゴリの最新記事