いっそのこと、ウオーカーに。

2024-06-10 16:00:54 | 日記
 6月10日です。蒸し暑くなってまいりました。来週には梅雨入りかな。

 5月末の膝のMRI検査では、まだ1/5ほど影が残っていて、RUNお預けは続きます。やはり、全治3ケ月の見立て通りのようです。
 ここで、武田ドクターより指示有り。『暑くなってきたから、暑熱順化のトレをやりなさい。ウオーキングなら、2時間大丈夫。暑熱順化まで3週間です。』  なるほど~! 7月からRUN、OKとなっても、夏の暑さの中ですぐにガンガン走れるわけではない。
 11月初旬のフルマラソン、本命の11/22~24の「橘湾岸スーパーマラニック」(W276km)まで残り5ケ月、来月から走りだせたとして4ケ月、爺さんにしてはぎりぎりの練習期間しかありません。
 わかっちゃいるけど、2ケ月も一歩も走ってないと、『もういいんじゃないのかねぇ、ふつうに年寄りやれば、、、』と囁く自分がいるのですよ。

 前々回のWで、小浜木場(269,7km)で関門アウトとなったのは、雲仙地獄(260km)あたりから身体が反り返ってまともに歩けず、何度もこけてしまったからで、いったいこれの防止、対策は何なのだろうと思案してきたが、やはり筋肉を頑丈に鍛えるしかないか、、、が75歳の爺さんにそんなに有効なトレーニングがあるとは思えんし、、。そうだ、ポール歩きはどうだろうか。

(2022/11/22 ㏘16;27;53 関門時刻に18分超過)

 トレッキングポールは、かっての「萩往還マラニック」に出場するにあたって購入していたが、なんか邪道のような気がしたことと、そんなに使う場面も無いのに持ち運びが面倒なのでお蔵入りしていたが、昨年の「新萩往還」で坂上り下りの楽さに気づいた。がしかし、「橘湾」に持ち込むとなると、ほとんどロードであるし、山での杖とは違うはず。先ずはポールの正しい使い方を教えてもらわんといかんなぁ。

 Netで探すと、カルチャーセンターにはある。ただし1回1600円なり。う~む。で見つけました。公民館の健康教室。東区でいささか遠いけど月一回、無料。講師の名前にビックリ! 面識はないが、ここらの市民マラソンでは入賞常連の若き女性ランナーではないか。大病院の「健康運動指導士」さんとのこと。さっそく公民館に電話すると『どうぞ、どうぞ!』 ノルディックウオークである。


 かくして、まずは受講。講師のTHUさんには正直に目的を話す。なにしろ受講者は”おねえさま”ばっかりで、男性歓迎だそうで、、、75歳なんですけど。
で、自分なりに、暑熱順化を兼ねて練習開始。マイコースで、犬の散歩中のかっての同僚と久しぶりの再会、シャッターをお願いする。まだまだフォームがダメですねぇ。
6月いっぱいは、この練習に励みます。



 先日、ジョギング中の橘湾岸スーパーマラニック事務局の井上さんに遭遇(同じ小学校区内居住なのですよ)、呼び止めて『秋にはお世話になります。』『ダメなら(ボランティアに)入ってね。
うんにゃ、爺さんは、走りたいのですよ。



ほどほどに

2024-05-27 04:44:17 | 日記
 5月27日早朝、午前4時50分です。目が覚めてしまいましたので、PCに向かっています。

 25日(土曜日)は、昼間から「一年一回 酔っ払う」でした。学生時代の仲間5人で飲み事でした。みんな74~76歳で、半世紀をすっと飛び越えて、無事、生きていることを喜んで楽しくのみましたが、ついつい飲み過ぎ。帰りのバスは、路線を間違えて乗ってしまい、2㎞ほど自宅まで千鳥足でした。途中で転んだようで脚に擦り傷が。誰かに見られてませんかねぇ。

 26日は、同居の孫息子3号の4歳の誕生日でした。父親が3年前に病没、ジジババで孫育てをやってますが、めそめそすることもなく悪ガキになっています。


 「ランナーズ7月号が届きました。1月号の「ランナーズダイアリー」と7月号の「全日本マラソンランキング」と、年間2冊のみ購入しています。
なんと、74歳で、67位に入りました。「姫路城マラソン」での 4;34;28でした。全国89大会、男性255,537人、女性60,918人の完走者の中で、男性74歳の完走者は、421人ですから、これから先は、とにかく走り続けてさえおれば、100位内の可能性があります。100位まで名前があるのは77歳まで。みなさん、頑張りまっしょう!


26日付 朝日新聞朝刊に、こんな投稿がありました。勝手ながら、載せさせていただきます。

爺さんも、この方のように「ほどほどに」頑張っていきたいものです。

 明日28日は、MRI検査の予定、ランニングの許可が出ないかなぁ。 
  

五月晴れ

2024-05-15 17:45:12 | 日記
 5月15日です。 前回投稿より早くも2週間と少し。
 右ひざ下骨挫傷による休足はまだ続いております。週一でリハビリジムに通っておりますが、筋肉は落ちるは、ぜい肉はつくはで、いささか危機感を抱いております。

 何もすることがないまま、ぼんやりと連休が過ぎてゆきました。5月6日は、久保田万太郎忌日でした。(1963年=昭和38年)

    尋(と)めゆけどゆけどせんなし五月闇 (昭和32年「耕一、百ケ日」)  万太郎

    親一人子一人螢光りけり    (昭和19年「耕一応召」)
    親一人あとにのこりし螢かな  (昭和32年 この年2月、一人息子に先立たれる。)


 この哀切きわまりない万太郎句を読みながら、爺さんの一句。

    五月晴れグータラ犬を丸洗い  ほそはぎ
 天日干ししているとこです。

なんという弛緩しまくりの情けない老後でありましょう。

 ゴールデンウイーク中は、DNSとした「橘湾岸スーパーマラニック」の皆さん、今ごろどのあたりかなと、、、初日4日の異様な高温が響いて、そうそうたるメンバーもやられっちマッタようでした。あの天候では、爺さんも出走していたならばゴールまでたどり着いたかどうか。皆様、お疲れ様でした。

 本日から、秋の橘湾岸スーパーマラニック」のエントリーが始まりまして、爺さんは早速、申し込みました。W部門273㎞、『こんどこそ!』であります。他に言いようがありません。
 昨14日タケダスポーツ整形にて、MRI検査。骨挫傷の白い影は1/3程に減って回復途上でした。疲労骨折ならば”骨折線”が見えてくるが、それは無いので、やはり車両内での転倒打撲によるものだろうとのこと。「少しづつ走っていいですか?」『ダメ!』 やっぱり、6月いっぱい休足かなぁ~。

 7月から走り始めて、11月2~4日の「橘湾」に出れるかなぁ、、、もう、あきらめて3日に「下関海響マラソン」を走るかなぁ~、、、。「橘湾」のエントリー代は23年からのスライドで手出しは無いからとにかく走ってDNFでもしかたないかなぁ~、、、それでウルトラの幕引きとなるとなんだかみじめだなぁ、、、やっぱりフルマラソン完走の方が気分いいかなぁ、、、と思いあぐねているところへ。
 11月22~24日へ、急遽、開催日変更とのこと。やったー! 3日に、フルマラソンを走って足の出来具合を見て、「橘湾」へ、と腹が決まったのであります。

 町内の公園から、宝満、三郡を眺めながら、キッチリ、トレーニングをするぞ~! 誓うのでした。(毎年、このころには誓ってはいたのですがネ。)

頑張るぞう~!

とばたあやめ、なんじゃもんじゃ

2024-04-28 16:44:39 | 日記
4月28日です。ゴールデンウイークとやらに入りましたが、年中お休みの爺さんにとっては、特にどうということもなく。

27日(土曜日) ランニング禁止中の気晴らしに、なつかしき戸畑ウオークをしてきました。まさにこの時期にしか出会えないものがあるからです。

 戸畑駅から出発、先ずは旧戸畑市役所(現、戸畑図書館)。

 
 駅の近くのラーメン屋さんで腹ごしらえと思ったのですが、なんと無くなっていました。スマホで検索すると、高校時代の通学路にあるらしい。お客さんが並んでいました。ラーメンのことは詳しくありませんが、久しぶりにおいしいラーメンでした。「いつから開業されてますか?」「58年になります。」  ええっ!というと爺さんは、高3。そう言えばラーメン屋さんができたなぁ、と記憶が甦る。下校時、この対面の店でアイスキャンディーを食べてたなぁ、がラーメンを欲しくなる時刻でなかったのか食べた記憶なし。


 西大谷への坂道を上る。八幡製鉄の鉱滓鉄道を渡る。


 西大谷市民センターで、「あやめ公園」への道筋を尋ねる。山の上の小さな公園に咲いていました。清楚で可憐な花、「トバタアヤメ」。




 噂には聞いていましたが、対面は初めてです。

 戸畑区と八幡東区の境の尾根筋を歩いて、北九州市立美術館へ向かいます。
 八幡製鉄所鞘ヶ谷陸上競技場
(現在は、北九州市立スタジアムとなっているようです。) 戸畑区の中体連の会場でしたので観戦で来た時には、田舎者の爺さんは陸上競技場は初めてでオッたまげたものでした。


  七月の青峰まぢかく溶鉱炉   山口誓子
と詠まれた皿倉山。戸畑バイパス陸橋から八幡方面を望む。


 北九州市立美術館。開館50周年記念とかで「横山大観展」をやっていたが、入場料1700円。今日は、ウオーキングが主眼なので入らず。

 美術館から戸畑の街を見る。


 鞘ヶ谷地区へ下る。ここは、製鉄所の工員さんの社宅が並んでいたのですが、マンションの社宅へ変わっていました。が、あまり生活感無し。省力化と工場縮小で社員も少なくなったのかもしれません。


 母校、戸畑高校の横を通って夜宮公園へ。菖蒲はこれからですね。


 その横の「なんじゃもんじゃ通り」 なんじゃもんじゃの花が満開です。






 この通りも下校時の通り道でした。
 ここにあるT小学校の校長をしていたSは、中学2、3年のクラスメイト、高校、大学と一緒でした。父上を大学1年生の時に亡くし、学生時代は八幡東区の建材メーカーの工場でアルバイト、、、というより正規社員並みのローテーションで働き、家族を養っておりました。北九州市の小学校に勤め若くして(40歳そこそこで)校長に昇進し活躍していました。が、平成15年秋、突然、自死してしまいました。
 通夜の席で、憔悴しきったご母堂に、爺さんは一言も掛ける言葉がありませんでした。校長昇進を新聞で知ってお祝いの電話をして話したのが、彼との最後の会話となってしまいました。何があろうと、どんなつらいことがあろうと、生き延びて、今ごろは「お互い、なんとか頑張ったなぁ。」と酒を酌み交わしたかった友です。
Sよ、安らかに眠れ。あれから、20年も過ぎました。

 中学校の時にSらと下校した階段、60年前と何も変わっていません。手すりができたくらいかな。


 戸畑駅から特急ソニックで帰る。缶ビールをしみじみと味わいあいました。


 トバタアヤメ、なんじゃもんじゃは、ゴールデンウイーク中、見頃です。

この限りない むなしさの、、、

2024-04-22 13:48:10 | 日記
 4月22日です。話題も見当たりませんので、日々雑感でございます。
 20日(土曜日)町内会総会(190世帯)での司会進行役を終えて、4年間の町内会副会長を退かせてもらいました。民生委員児童委員は、来年11月末まで任期です。

           葉桜やグータラ犬と昼寝かな    ほそはぎ


 右ひざ下骨挫傷は、歩くには痛みはありませんが走ると着地時にズキッとします。今週は、再度、MRIの予定です。
 マイコースは、すっかり葉桜トンネルです。お散歩です。


 ぶらりと入った本屋で目に留まった一冊の本。著者名に惹かれて買い、通読しました。


 きたやまおさむ(北山修)
 爺さんら団塊の世代には懐かしい名前です。氏は、1946年生まれ、京都府立医大卒、精神分析学を専攻し、九州大学教授などを歴任。だが、フォーク・クルセダーズとして、1960年代後半に一世を風靡した名前です。爺さんは、氏の書いた文章を読むのは初めてです。

 「本書は、蔓延していると感じる「むなしさ」につき、自己分析を踏まえ、日本語・日本文化や現代社会を見据えながら書いた。」(あとがき)

          白い雲は 流れ流れて
          今日も夢はもつれ わびしくゆれる
          悲しくて悲しくて
          とてもやりきれない
          この限りない むなしさ
          救いはないだろうか

 彼らが歌った「悲しくてやりきれない」(サトウハチロー詩、加藤和彦作曲)の二番です。その感傷を誘う甘美なメロディーに惹かれたものでした。

 1960年代後半は、のちに爺さんらの一回り若い社会学者小熊英二『1968ー若者たちの反乱とその背景』(上)『1968ー叛乱の終焉とその遺産』(下)2009新曜社、にて描き出したその時代の若者にとっては騒然とした激動の時代でありました。「東大全共闘」をピークとし、「連合赤軍」を幕引きとしたのでありました。
 その激動の余波を片田舎で被って悶々としていた貧乏学生にとって、その震源地は東京であり、京都であったと思うのです。 

 その京都で、”学校は、紛争で授業もない。ヒマで面白くないので歌でもやろうか。”と結成したのが、フォーク・クルセダーズだったらしいのは、当時の新聞記事の記憶です。そのころはグループサウンズ最盛期だったはずですし、小熊英二の指摘するように”叛乱”の渦を少しでも体験した者は同世代のせいぜい2割程度で、その考えも時代錯誤と言えば言えるのですが、、、。

 がしかし。きたやま氏がその当時、感じていたという「むなしさ」は、じいさんにとってはやはり無縁であったなぁ、という読後感です。医学部に進学できるほどの頭脳と、家庭の財力と、人に聞かせる歌唱力と、、、違う世界に住んでる人だなぁという感じが、やはりそうだったのかぁ、と。
 爺さんは、『はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る』(啄木)ままの一家でしたし、『吾がもてる貧しきものの卑しさを是の友に見て堪えがたかりき』(土屋文明)の心情は幼いころから自覚していたように思います。
 とにかく、ここから、這い上がりたいと気持ちには、きたやま氏の「むなしさ」は持ち得る余裕は無かった、、、あるいはそれそのものが「むなしさ」かも知れません。

 父は、自身が戦争を生き残ったことに罪悪感を覚え、身を削るように医者の仕事に専念しました。」「学生のころ、私が音楽を始めたとき、よく父親(戦争を戦争を経験した世代)から『女の腐ったような奴』と言われました。」  よくわかる気がします。爺さんの父も「帰ってきた酔っぱら」を聞いては苦笑いをしていました。(この歌は、京都ならでは生まれたと感心しています。京都の文化の蓄積と深さに。)

 爺さんも後期高齢者となり、もうほとんどこの世での役割もほとんど尽きたと思うこの頃、「>自分ではどうしようもない諦め
」に必死に抗って生きてきた人生が、いったいどんな価値があったのだろう、とまさに「むなしさ」にうちのめされるのかもしれません。

 62歳で、もう嫌だ、と働くのをやめてから、1~2年は、外出もせずに一日中、本を読んで過ごしました。ふとしたことで始めたランニング、だんだん距離が伸びて萩往還マラニック140km、みちのく津軽200kmと、雨に打たれながら、あるいは星空を仰ぎながら徹夜で走るときには、嫌でも自分自身の歴史と己は何なのだろうと考えざるを得ません。どんなに速い、若いランナーもこのことは同じことでしょう。このような時間を共に過ごすからこそ、またあの人たちと一緒に走りたいなぁ、と思うのでしょう。
 もし、爺さんが、ランニングの世界に出会わずにいたら、必ず老人性うつ病か、アルコール依存症になっていたことでしょう。

 いよいよ身体が衰えて走れなくなったとき、押し寄せるはずの「むなしさ」にどう向き合って行けばいいのでしょう。
 人生は、いつまで経っても、いばらの道です。美しい花は、自分で探さないと、、、。


 岩波新書920円  一読をお勧めします。