郡保家の一日

極く有りふれた家庭です。その生活の一端を記録していきたいと思います。

アルミの錆〔さび〕

2018年11月25日 | 日記

 玄関アルミ引き戸に白い粉が無数に噴き出ている。娘が前回来た時に指摘されて、その後気になっていた。今までは当たり前のように感じていたが、住人以外の人から見れば日頃玄関戸のお掃除がされていないと口には出さないが思われていたのかと思う。部屋や廊下などの掃除はしているが、玄関戸まではしていない。手抜きと言われればそうかも知れない。家人が昨日ホームセンターに行ったとき、アルミ専用の錆落としクリーナー(復活洗浄剤)や保護剤を頼んでいたが、取り扱っていないとの回答だった。仕方なく目の細かいサンドペーパーを買って来てくれた。朝から張り切ってサンドペーパーで錆落としに励んだが、一向に白い粉が落ちない。そこで、重曹を水で溶いて白い粉の部分に付けたりしてみたが駄目である。家人も参戦して手伝ってくれたが駄目だった。割り箸で白い部分を直接、擦〔こす〕ることにしたが、少し落ちたような気がした。竹ヘラで擦るが割り箸の方が良いようだ。木よりも金属の方が効率がよいと思い、試みるがアルミの下地が出て失敗である。私は根気がないので撤退したが、家人は続けてやってくれたが、まだまだ残っているし、これで良いと言う基準がないからどこまでが完成かが分からない。今までのツケを払うのは大変である。

 今日の夕食は、
















 ◆煮込みハンバーグ、カレー風味 ◆切干大根の酢の物 ◆サーモンのマリネ ◆南瓜簡単ポタージュ ◆ご飯
   ~  ~


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タイル

2018年11月24日 | 日記

 玄関前の壁にタイルを貼って頂いた。以前のタイルと色、サイズ、凹凸模様が少し違うが出来るだけ似ているものを選んだつもりだが、やはり貼った感じが違う。元通りにはならないものだ。致し方ないと諦め、慣れるより仕方ない。そうやって、これ以外のことも現実に押し潰されて行き、妥協しないとこの社会はやっていけない。逆に相手に妥協を強要しているときもあるが、自分では分かっていないし、分かろうともしない。人は(他から)されたことは覚えているが、(自分が)したことは覚えていないものだ。恨〔はん〕と言うものはいつまでも残るが、気持ちの取り組みですぐに蟠〔わだかま〕りや拘〔こだわ〕りから身を放すようにすれば恨みとして残ることがない。よく未来志向でと恨を消そうするが、未来の欲と過去の恨とを天秤に掛ければ欲がその時々で大きくなったり小さくなったりするものだから不可逆的に恨を消せない。決断するその時点できっぱり諦め、恨を残さない。もし、心に恨が現れたなら意気地なしと自分を叱らなければならない。そして嫌だと思ったことに慣れ、その原因を忘れることだ。そうやって多くの嫌なことを今までやり過ごしてきた。

 今日の夕食は、
















 ◆子持ちカレイの煮付け ◆白菜の煮浸し ◆大根餅 ◆ワカメ汁 ◆むかごご飯
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まだまだ

2018年11月23日 | 日記

 今日は朝からリフォーム会社担当者と塗装業者が来るのを待っていたが、来ない。家人が来る時間をいいかげんに聞いていたようで、1時半に担当者だけが来た。しかし、家人も私も言いたいことを黙っていることにしていたので、もっぱら世間話で終わった。リフォームは最初の予定ではもう終わりであったのにまだ続いている。終わりはいつになるのかが見えない。フエンスの方もまだ見積もりが出ない。更に住みやすい家にしていきたいと思う。そして死ぬまで安心して住め、一人でも立派に住んでいけるようにしたい。それが私が家に求める質である。だから、家を進化させていきたい。汚〔きた〕くしているとどうでもよくなり、どんどん家も自分も汚〔よご〕れたままになる。逆に清潔にしていると家も自分も清々〔すがすが〕しく綺麗〔きれい〕になる。リフォームした状態を維持していく気持ちが大切だ。家人がテニス練習に行く時お掃除をしている家があった。小さなお家であったが家の玄関ドァを雑巾で拭いている若い女性を見て、こうやってお掃除をしていた母を思い出したと言っていた。昔は物を大切に大事に扱っていたが、今では悪くなれば取替えれば良いと言う風潮になった。物への愛着がなくなったような気がする。

 今日の夕食は、
















 ◆鮭の菜種焼き ◆切干大根のミルク煮 ◆白菜サラダ ◆生麩田楽 ◆味噌汁 ◆ご飯
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2つのショック

2018年11月22日 | 日記

 昨日の当ブログのアクセス数が非常に少なくショックを受けた。でも自分たちの毎日のメモだからと他人様が見ようが見まいが関係ないと早く立ち直ることにした。もう一つのショックは家人の同期入社の同僚が2月に亡くなったと言う訃報のハガキです。京都と故郷の田舎に家があり、行ったり来たりしていたようですが最近は田舎に引き籠ったと言っていた。今年の年賀状には来年の年賀状は遠慮すると書かれていたが病気療養の中で書いたものとは思わず、水臭いなぁと読んで思っていた。家人のお友達もお亡くなりになる方がいて自分も今は元気であるがいつ事故や病気でなくなるか分からないと家人はしんみりと言う。私も家人もそんな歳になった。こうやっていろいろ会話が出来るのはいい夫婦とまでもいかないが、まぁまぁの夫婦なのかも知れません。今年は金木犀がほとんど花を付けなかったが今、花の形がよく似た柊〔ひいらぎ〕の花が多く咲き、ジャスミンのような香りを届けてくれている。

 今日の夕食は、
















 ◆豚カツ ◆南瓜サラダ ◆青菜の当座煮 ◆味噌汁 ◆ご飯
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 追記: 朝見た昨日のブログ・アクセス数が夕方見ると増えている。なぜ?なのと思う。実際は朝見た方が正しいのではないかと自分では過大評価しないことにした。


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一輪の花でも

2018年11月21日 | 日記

 一輪の花でもテーブルに飾ると気持ちが和らぐ。生きている花は蕾〔つぼみ〕から次第に膨らんで花びらを開いていきます。その変化も楽しみなものです。ブリザードの花や造花の花は長く綺麗ではあるが自然の変化を見せてはくれない。花は気温と光の中でゆっくりと時間を楽しみながら自らの気持ちを表現しようとする。私はふと後悔の念に駆られる。茎を切り、私の花にしてしまったから。傷ついた花は文句も言わず、与えられた場で短い生の時を楽しむ。その大らかさが私をさらに惨めにする。花は花の役割を全うしようと残りの時を生き抜こうとしているのであれば、感謝を持って見守ることが私に課せられたことであろうと思う。なお、仏教でもお花を飾る。亡き人に供花するが、そのお花は私たちの方を向いて飾っているし、殺生しないようにと言うのに生花(自然の生きた花)を切るのはどうしてだろうか。人を中心に世の中が回っている。仏教もよく分らないところがある。

 今日の夕食は、
















 ◆鶏もも肉と豆のトマト煮 ◆サラダ ◆じゃが芋のチーズ焼き ◆野菜スープ ◆ご飯
   ~ 今日は調査の仕事で4時過ぎに出掛け、9時の遅い夕食でした。 ~


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