門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

奥の細道行脚。第八回「しのぶの里」

2010-06-22 12:42:46 | 日記
【奥の細道】

 明けて、しのぶ文字摺りの石を尋ね、忍ぶの里に行く。遥か山陰の小村に石がなかば埋もれて出ている。里の童が来て教える、
「昔はこの山の上にありました。往来の人が、畑の麦の葉を荒らしては、この石で摺って試すので、これを憎みこの谷に突き落としたのです。それで石の表面が下となってこのように埋まってしまいました」。
 そういうこともあるのだろうか。


 早苗とる手もとや昔しのぶ摺


鑑賞(早苗をとる早乙女たちの手もとをみれば、昔この石で文字摺りをしたゆかしい習慣がしのばれるのではあるが)


【曾良旅日記】

 二日。快晴。福島を出る。町外れを十町ほど行くと、五十辺村の外れに川がある。この川は越えず右手へ七、八丁行って阿武隈川を船で渡る。岡部の渡しという。ここから十七、八丁山の方へ行くと谷間に文字摺りの石があった。古い柵がある。草葺観音堂あり。杉、檜六、七本。虎の清水という小さく浅い泉がある。福島の東方。このあたりを山口村という。ここから瀬上へ行くには、岡部の渡し下流の月の輪の渡しより越えることになる。ここを渡れば十四、五丁で瀬上に着く。山口村から瀬上までは二里ほどである。


【奥細道菅菰抄】

福島に泊まる…
しのぶの里…
明けて、しのぶ文字摺りの石を尋ね、忍ぶの里に行く

福島は、往来の駅で板倉家の館下である。絹を産する。世に福島絹と呼ぶ。
ここから、しのぶの里にいたるまで、すべて信夫郡となる。

文字摺りは、『古今集』、「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおもふ我ならなくに」、河原左大臣。
『後拾遺集』、「君にかくおもひみだるとしらせばやこころの奥のしのぶもぢずり」、後法性寺関白。などという、証歌が残り、名物である。(今、福島よりもぢずりという染め絹を産出する。模様は石目、または紅縞でしのぶ草の葉で染める)

『童蒙抄』にいう。「もぢずりとは、陸奥信夫郡で摺りだす、摺染めの名。摺り重ね、乱れ紋様を打ち出す」。

栄雅の説によると、信夫郡に大石が二つあったという。石の表面は平らで、捩れた紋様がある。これに押し当て藍で染め出した布を、むかし年貢に奉った。天智天皇の御代のことである。

『八雲御抄』では、忍ぶ草を紋様にした摺り染めであるという。

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW

奥の細道行脚。第七回「白川の関」

2010-06-20 08:38:01 | 日記
【奥の細道】

 こころもとなく日数を重ねるままに、白川の関 にかかり旅心が定まった。古人が「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である。中でもこの関は、奥羽三関の一で、風騒の人は心ひかれるところ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なおあわれである。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそえて、雪の中をこえるような心地がする。古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔の筆にもとどめ置かれたと聞く。

 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

鑑賞(古人が正装して越えた関という。われら風狂の旅人であれば、今を盛りに咲き誇る卯の花をかんざしに差し、これを晴着にこの関越えるがふさわしかろう)


【曾良旅日記】

○白河の古関跡は、簱の宿の下へ一里ほど下野にある。追分というところに関の明神があるという。相楽乍憚より聞く。以下、丸印の文は乍憚よりの聞書き。
○忘れず山は、今は新地山という。但馬村というところより半道ほど東に行く。阿武隈河の側。
○二方の山は、今は二子塚村という。右、忘れず山より阿武隈河を渡って行く。二ヶ所とも関山より白河方面にあり、旧道となる。二方の山を詠んだ古歌がある。

 みちのくの阿武隈河のわたり江に
人(妹とも)忘れずの山は有りけり

○うたたねの森は、白河からも近く、鹿島神社からも近い。今は木が一、二本残るのみ。

 かしま成うたたねの森橋たえて
いなをふせどりも通はざりけり
(八雲御抄にあるという)

○宗祇(そうぎ)戻し橋は、白河の町より右手(石山からの入口である)、鹿島へ行く道のえた町にある。その片側に、なるほどそれらしき橋があった。むかし、結城氏 が何代目かに白河を知行したおり、一門衆が寄り集まって、鹿島で連歌興行 を催した。この時、難句あり。三日経っても誰にも付け句できない。旅行中の宗祇が宿でこれを聞き、鹿島へ行こうとすると、四十がらみの女がやってきて、宗祇に
「何用にて、何処方(いずかた)まで」
 と問う。右の由、説明すると、女、
「それは、妾、さきほど付けました」
 と答えて消えた。

月日の下に独りこそすめ

 付句
 かきおくる文のをくには名をとめて

 と、書いてあったので、宗祇は感じ入り、その橋から引き返したと伝える。


【奥細道菅菰抄】

白川の関にかかり

この関は、奥州の入口、宮城郡の名所で古歌も多い。
○調べてみると、白河の手前、白坂という駅の南に、下野と陸奥との境がある。境の明神といって、ここに二社が立ち並ぶ。南を下野、北を陸奥の社であるという。ここが、あるいは昔の関跡ではなかろうか。今、白河といっているのは榊原家の城下にある宿駅のことである。

「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である

『拾遺集』、「便りあらばいかで都へ告やらんけふ白川のせきはこゆると」、平兼盛。

三関の一で

旧説によると、逢坂・鈴鹿・不破を三関という。白川の関を三関の一とすること、いまだ聞かず。

風騒の人

本字は「風繰」と書き、風雅に遊ぶことをいう。あるいは、通称にて、風藻、風操とも書いている。

秋風を耳に残し

『後拾遺集』、「都をば霞とともに出しかど秋風ぞふくしら河のせき」、能因法師。
清輔の『袋草子』にいう。
「能因、実際奥州に下向してはいなかった。この歌を詠むために、ひそかに篭居(ろうきょ)。それで人々に能因は奥州にいった、と風聞をたてさせたとか。二度下向しているともいう。一度くらいは行ったのであろうか。八十島記を書いた」と。
『古今著聞集』にいう。
「能因は際立った数寄者で、この歌を都に居ながらにして出したのでは能がない、と考えた。人に知られず久しく籠って、自宅で日に当たり日焼けした後、陸奥の方へ修行に出かけた途路に詠んだもの、と披露した」。

紅葉を俤にして

『千載集』、「もみぢ葉の皆くれないに散しけば名のみ成けり白川の関」、左大弁親宗。

青葉の梢なおあわれである

「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしくしらかはのせき」、頼政。
ただし、本文のあわれは、「頼政の身のなれはてはあわれなりけり」、と詠んだあわれのごとく、天晴れという意味である。

卯の花の白妙に

『千載集』、「見て過ぐる人しなければうの花の咲(さく)る垣根やしら河の関」、藤原季通朝臣。

茨の花の咲きそえて

読み解くと、この句前後の言葉はすべて、古歌故事を折りはさんだ、ひたすら優美のみで、いわば歌人の文に似ているが、この一句をはさむことにより、すべてが俳文となったのだ。文章を学ぼうとする人、これを亀鑑(きかん)とすべきであろう。

雪の中をこえるような心地がする

『千載集』、「東路も年も末にやなりぬらん雪ふりにけり白川の関」、僧都印性。

古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔の筆にもとどめ置かれたと聞く

清輔の『袋草子』にいう。
「竹田の大夫国行という者、陸奥下向の時、白川の関を越える日は、ことさら装束を飾りつくろい、向かったと伝える。ある人が、その理由を聞いたところ、答えて、古曾部の入道が、『秋風ぞふく白川の関』と詠まれたところを、なぜ普段着などで通れようか、といった。殊勝なことである」。(古曾部の入道は能因のこと。伝来は以下にある)

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW

奥の細道行脚。第六回「那須」

2010-06-17 13:44:33 | 日記
【奥の細道】

 那須の黒羽というところに 知人がある。これより野を横切って、近道を行こうとした。遥かに一村落を見、たどり着くと雨が降り日も暮れる。農夫の家に一夜の宿をかり、明ければまた野中を行く。放し飼いの馬あり。草刈男に嘆きよれば、野夫とはいうものの さすが情けを知らぬものではない。
「さて、どうしたものか。馬をお貸ししたとて、この野は縦横無尽の分かれ道。不案内な旅人では道に迷うかもしれない。迷いそうになったら、この馬に任せば自然と進み、止まる。それより馬をお返しください」
 と貸してくれた。幼いもの二人、馬のあとをしたい、駆けてくる。一人は小さな姫で、名を「かさね」という。聞きなれぬ名が優美に思え、


 かさねとは八重撫子の名成べし 曾良


鑑賞(人里はなれた野にも可憐な花が咲くもの。小さな姫の名はかさね。花びらを重ねる、八重撫子に名をもらったのであろうよ)


 やがて人里に出たので、駄賃を鞍つぼに結びつけ馬を返した。


【奥細道菅菰抄】

那須の黒羽というところに

黒羽根は、那須七騎の内、大関家の領地で、館がある。

これより野を横切って

この野は、那須野をさす。名所である。『夫木抄』、「道多きなすの御狩の矢さけびにのがれぬ鹿のこえぞ聞こゆる」、真実。

野夫とはいうものの

野は、いやし、と訓じる。野夫は、礼儀をわきまえない軽輩の称であり、今民間に「やぼ」というのも、ここから出た。

この野は縦横無尽の分かれ道

那須野の道が多いこと。前の古歌にも見える。

「この馬に任せば自然と進み、止まる。それより馬をお返しください」と貸してくれた

馬は道を知るものである。韓非子にいう。「斉の桓公が狐狩りに出かけた。春に出発。冬帰還。道に迷い方向を失う。管仲が、老馬の知恵を借りましょう、という。そこで老馬を放って、これについていったところ、ついに進むべき道がわかった」と。

名を「かさね」という

調べてみると、世間で、祐天上人が教化した、鬼怒川の与右衛門の妻、かさねというものは、もしかすると、この小姫が成長したものではあるまいか。おおむね時代も一致するし、鬼怒川もこのあたりに近い。


『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW

「千利休名言集」できました。

2010-06-14 22:32:33 | 日記
家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにてたる事なり。
叶うはよし、叶いたがるは悪しし。
一期一会。
夏は涼しいように、冬は暖かなように。
心の師とはなれ、心を師とせざれ。

茶道史に不滅の金字塔を打ち立てた、茶聖千利休の名言をコンパクトに
”千利休名言集”
http://bit.ly/bqvOe0
にまとめてみました。それぞれの名言にご興味ありましたら、解説は「名言名句」過去ログをご参照ください。
http://bit.ly/cgGMB0

奥の細道行脚。第五回「日光」

2010-06-13 08:32:20 | 旅行
四月一日、みずみずしい青葉、まぶしい陽光に迎えられ、芭蕉一行は日光山を参詣します。道に迷った那須黒羽の野で、たまたま愛らしい姫二人と邂逅。芭蕉の乗る馬のあとを無邪気に慕う小さな姫の名は、「かさね」。八重なでしこにもらった名であろう、と曾良が句を即興に詠みました。殺生石・遊行柳の旧跡を経、当初の目的地「白川の関」へ。古人の歌に思いをはせ、古い俳友と旧交を温めながら旅を続けます。しかし、しのぶの里、飯坂(飯塚)の宿では旅の感興をそぐ小さな「とげ」に悩まされる。芭蕉はめげずに気力をふるいおこし、力強い足取りで、ついに奥羽への入り口、伊達の大木戸を踏み越えるのです。


●日光

【奥の細道】

 卯月一日、お山に参詣した。その昔、このお山を二荒山と書いていたが、空海大師開基の時、日光と改められた 。千年の未来を悟られたものか、今この御光は一天に輝き、恩沢八荒にあふれ、四民安堵にして住みか穏やかである。これよりは多言憚りあって、筆を置くとしよう。

 あらたうと青葉若葉の日の光

鑑賞(青葉、若葉にこぼれる日の光。み仏の恵みが聖山にあまねくあふれ行き渡り、自ずと手を合わせられるありがたさ、尊さである)

 黒髪山には霞がかかり、雪がいまだ白く見える。

 剃捨てて黒髪山に衣更え 曾良

鑑賞(髪を剃り出家の体で旅立ったものだが、この黒髪山にて奇しくも四月の衣替えとなった。装いも新たに長旅への誓いもいっそう強められるようだ)

 曾良は、氏は河合、名を惣五郎という。芭蕉の葉の下に軒を並べ、私の薪をとり、水を汲む労を助けてくれる。このたび松島・象潟の眺めをともにすることを悦び、かつ羈旅の難をいたわろうとするもの。旅立ちの暁に髪を剃り、墨染め衣に姿を変え、惣五改め宗悟とする。これにより、黒髪山の句がなった。「衣更」のふた文字、力がこもって聞こえる。

 二十余丁山を登って滝あり。岩洞のいただきより飛流すること百尺。千岩の碧潭にどうと落ちる。岩窟に身をひそめて入り、滝の裏よりみるゆえ、これを「うらみ」の滝と申し伝えるとか。

 暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初

鑑賞(初夏、清冽な滝の裏ふところに観じ入れば、その轟音と涼気でもって世俗妄念を吹き払い、しばし夏安居の修行僧となったようだ)

【曾良旅日記】

一 同二日、天気快晴。辰の中刻、宿を出る。裏見の滝(一里ほど西北に位置する)、含満が淵をめぐり、ようやく昼となる。鉢石を発ち、那須、太田原へ向かう。通常は今市へ戻って大渡というところから行くのだが、五左衛門が近道を教えてくれた。日光から二十丁ほど下り、左へ曲がる。川を越え、瀬の尾、川室 という村へかかり、大渡という馬次に着いた。三里にやや届かないほどの距離。


【奥細道菅菰抄】

その昔、このお山を二荒山と書いていたが、空海大師開基の時、日光と改められた

空海は、弘法大師のこと。『元享釈書』に、
「釈の空海は、俗姓佐伯氏、讃州多度郡の人。父は田公、母は阿刀氏。母は、梵僧が懐に入る夢を見た。そうして身ごもり、胎内にあること十二ヶ月、宝亀五年に生まれ出る。母はその夢のお告げにちなんで、幼名を貴物と名付けた。成人後、沙門勒操につき、法を受け、落髪。最初の名は教海。後に自ら改め、如空と称した。延暦十四年、東大寺の壇に昇り、具足戒を受け、さらに空海と改めた。二十三年、遣唐使に従って入唐。元和元年秋八月に帰る。大同太上皇、空海を壇に入れて灌頂。帝者の密灌が、これより始まる。弘仁七年、紀州の相勝の地に遊説し、高野山に上り、金剛寺を創建。承和二年三月二十一日、空海はこの地で、結跏趺坐し入定する。延喜二十五年冬十月、弘法大師の謚を賜った(大師・国師の号は、みな帝王の師たる称号である。よってほとんど死後の謚として賜るのだ)」
とある。
空海を日光山の開基とし、さらに山名を改めたということは、日光山の記および、他の書にもいまだ見えない。

恩沢八荒にあふれ

恩沢は俗に、「おかげ」ということで、慈恩のうるおいをいう。八荒の文字は、『山海経』・『神異経』・『准南子』等にあり、荒は遠方をさす。八荒は四方四隅の(俗に八方という)遠い場所である。

四民安堵にして住みか穏やかである

四民は、「士農工商」をいう。『前漢書 食貨志』に見える。安堵は、通常「案堵」と書き、歴史書中に散在している。安居と同じ。落ち着いて居ること。

黒髪山には霞がかかり

黒髪山は、上野国の名所で、上野・下野の境となる。
『続古今集』、「むば玉のくろかみ山を朝こえて木の下露にぬれにける哉(かな)」、人丸。
『方角抄』、「旅びとの真(ま)菅(すが)の笠やくちぬらむ黒髪やまのさみだれの比(ころ)」。

薪をとり、水を汲む労を助け

『晋書』陶淵明の伝記にいう。「陶潜が彭沢の令となった。一人の力を息子に送っていう。このものを従え、自ら雑用をするな。この力を遺(のこ)し、汝の薪水の労を助く」と。
力とは、下僕のこと。薪水とは、朝夕の炊事のことである。また、釈尊が、檀特山にて、阿羅羅仙人に師事した時、採果汲水の業をなしたことなどとの取り合わせであろう。

かつ羈旅の難をいたわろうと

羈は、本字は「覉」であり、よる、と訓じる。羈は仮音である。覉旅は、旅に居ることをいう。『左伝』に見える。

岩洞のいただきより飛流する

洞は、「峒」と通じる。岩峒は、岩屋のことである。

碧潭にどうと落ちる

碧は、みどりと和訓する。瑠璃色をいう。潭は、淵である。水の深いところは、瑠璃色に見えるため、このように名付ける。

岩窟に身をひそめて

岩窟も岩屋をさす。

 暫時は滝に籠るや夏の初

 夏(げ)は、もと結夏(ゆげ)といい、略して夏とした。僧が家にこもって修行する時の名である。
『五雑組』にいう。「四月十五日、国中の僧と尼が禅刹に行き塔に滞留する。これを結夏、または結制(ゆせい)という。また、安居(あんご)と名付けた」と。
『釈氏要覧』にいう。「心身が静謐なことを安、と申す。一定時期住むことを居、という」と。安居は、寂然(じゃくねん)として過ごすことをいう。

○友人の僧、懶庵の説である。
「天竺の一年は、春夏冬の三季のみにて、秋がない。ゆえに一季は中国の四个月に相当する。中国の当月十五日より、翌月十四日までを一月として、上旬の十五日間を黒月と呼ぶ。下旬の十五日を白月とする。中夏に、上弦下弦とするようなものである。一夏九十日とは、夏一季の内、結制する日をいう。九十日が一季のすべてではない」。

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW