門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

6/14(月) 中世日本文化講座「茶道、日本建築と庭」

2010-06-11 12:16:12 | 日記
中世日本文化の基礎を学ぶ公開講座が、6/14、ちよだプラットフォーム・スクウェア(神田錦町)にて開催されます。

今回は、"禅"をキーワードに、茶の湯、日本庭園、建築、それぞれの発生と歴史、文化的価値を解明。豊富な画像資料・文献をもとに、私たち日本人の精神性と美意識のルーツをシンプルに学んでいきます。どなたでもご参加いただけます。

6月14日(月)13:45~16:00
日本文化体験交流塾
【禅と中世日本文化講座】
第4回「茶道、日本建築と庭」
http://bit.ly/98aNU4

◆講座6「茶道とは」
・茶道の歴史
・千利休
・禅と茶道

◆講座7「日本建築と庭」 
・日本建築の歴史と様式
・日本庭園の歴史と様式
・禅と庭

主催 NPO法人日本文化体験交流塾
会費 3,300円(一般) 2,600円(会員)

奥の細道行脚。第四回「仏五左衛門」

2010-06-10 20:18:38 | 日記
【奥の細道】
 三十日、日光山のふもとに泊まる。ここの主が、
「わが名、仏五左衛門と申します。なにごとも正直を旨といたしますゆえ、人もこのように申しますもので。一夜の草枕、打ち解けてお休みなさいますよう」
 という。いかなる仏が、この濁世塵土に現れ出でて、このような桑門の乞食巡礼ごときものをお助けくださるのかと、主のなすことに心をつけて見ていると、ただ無知無分別にして馬鹿正直なるものであった。剛毅木訥は仁に近し、というが、生まれついての清らかなこころ、もっとも尊ぶべきであろう。


【曾良旅日記】
一 四月一日、前夜より小雨降る。辰の上刻、宿を出る。やんでのち、時々小雨となる。終日曇り。午の刻、日光に着。雨上がる。清水寺の書を養源院 へ届ける。大楽院へ使いの僧をつけてくれた。折悪しく大楽院に別客あり。未の下刻まで待って、お宮を拝見することができた。その夜は、日光上鉢石町の五左衛門というものの方に泊まる。一五二四。


【奥細道菅菰抄】
三十日、日光山のふもとに泊まる

日光山は、下野の国河内郡にある。祭神は、事代主の命。開山は、勝道上人である。東都より北へ三十六里。

濁世塵土に現れ出でて

 濁世は、『法華経』・『阿弥陀経』等にいう「五濁悪世」をさす。五濁とは、業濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のこと。五塵は、眼・耳・鼻・口・心の塵汚をいう。あるいは、色塵・声塵・香塵・味塵・触塵をいうとも。五濁五塵ともに、娑婆世界の嫌悪すべきものすべてをさしている。

このような桑門の

 桑門は、沙門の音便という。沙門は、僧の梵語である。

剛毅朴訥は仁に近し

『論語』に、「剛毅木訥は仁に近し」とある。剛毅は気質のしっかりしたこと。木は樸と通じ、つくろい飾らぬさまをいう。訥は言葉の不調法なことをいい、いずれも律義者の形容である。


一行は室の八島を経由し、4月1日日光のふもとまでたどり着きました。芭蕉の本文ではふもとの五左衛門宿に泊まったのは、3月晦日となっていますが、これは物語構成上の潤色で、月がかわり気分も新たに、翌日4月1日に日光山拝観、としたかったのでしょう。

序章の名文は、平家物語、方丈記の冒頭などと同様、原文で暗記されている方も多いと思います。高校古文で必ず記憶させられるところですね。菅菰抄の解説は非常に役に立ちます。
「仏五左衛門」は、奥の細道前半で、庵主の特にお気に入りのキャラクターです。熊の毛皮のちゃんちゃんこを着ていそうです。人物描写から、宿の土間の間取りから、囲炉裏の具合、表へと続く険しいけもの道のようすまで、生々しく想像できますね。無愛想な主人と師匠を懸命に取りもつ、曾良の人のよさそうな愛想笑いも想い浮かびます。

さて、次回一行は尊い日光東照宮を拝観し、裏見の滝で禅僧たちの初夏を味わい、黒羽へと向かいます。

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社2008
http://bit.ly/cnNRhW
【奥の細道】
 三十日、日光山のふもとに泊まる。ここの主が、
「わが名、仏五左衛門と申します。なにごとも正直を旨といたしますゆえ、人もこのように申しますもので。一夜の草枕、打ち解けてお休みなさいますよう」
 という。いかなる仏が、この濁世塵土に現れ出でて、このような桑門の乞食巡礼ごときものをお助けくださるのかと、主のなすことに心をつけて見ていると、ただ無知無分別にして馬鹿正直なるものであった。剛毅木訥は仁に近し、というが、生まれついての清らかなこころ、もっとも尊ぶべきであろう。


【曾良旅日記】
一 四月一日、前夜より小雨降る。辰の上刻、宿を出る。やんでのち、時々小雨となる。終日曇り。午の刻、日光に着。雨上がる。清水寺の書を養源院 へ届ける。大楽院へ使いの僧をつけてくれた。折悪しく大楽院に別客あり。未の下刻まで待って、お宮を拝見することができた。その夜は、日光上鉢石町の五左衛門というものの方に泊まる。一五二四。


【奥細道菅菰抄】
三十日、日光山のふもとに泊まる

日光山は、下野の国河内郡にある。祭神は、事代主の命。開山は、勝道上人である。東都より北へ三十六里。

濁世塵土に現れ出でて

 濁世は、『法華経』・『阿弥陀経』等にいう「五濁悪世」をさす。五濁とは、業濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のこと。五塵は、眼・耳・鼻・口・心の塵汚をいう。あるいは、色塵・声塵・香塵・味塵・触塵をいうとも。五濁五塵ともに、娑婆世界の嫌悪すべきものすべてをさしている。

このような桑門の

 桑門は、沙門の音便という。沙門は、僧の梵語である。

剛毅朴訥は仁に近し

『論語』に、「剛毅木訥は仁に近し」とある。剛毅は気質のしっかりしたこと。木は樸と通じ、つくろい飾らぬさまをいう。訥は言葉の不調法なことをいい、いずれも律義者の形容である。


一行は室の八島を経由し、4月1日日光のふもとまでたどり着きました。芭蕉の本文ではふもとの五左衛門宿に泊まったのは、3月晦日となっていますが、これは物語構成上の潤色で、月がかわり気分も新たに、翌日4月1日に日光山拝観、としたかったのでしょう。

序章の名文は、平家物語、方丈記の冒頭などと同様、原文で暗記されている方も多いと思います。高校古文で必ず記憶させられるところですね。菅菰抄の解説は非常に役に立ちます。
「仏五左衛門」は、奥の細道前半で、庵主の特にお気に入りのキャラクターです。熊の毛皮のちゃんちゃんこを着ていそうです。人物描写から、宿の土間の間取りから、囲炉裏の具合、表へと続く険しいけもの道のようすまで、生々しく想像できますね。無愛想な主人と師匠を懸命に取りもつ、曾良の人のよさそうな愛想笑いも想い浮かびます。

さて、次回一行は尊い日光東照宮を拝観し、裏見の滝で禅僧たちの初夏を味わい、黒羽へと向かいます。

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社2008
http://bit.ly/cnNRhW

6/7(月)夜、大人の「寺子屋」あります。

2010-06-06 21:10:03 | 日記
古典名作を音読、鑑賞する「寺子屋素読ノ会」。
http://bit.ly/alUNRw

6/7(月) 「葉隠」17:30-19:00
「風姿花伝」19:30-21:00

新橋生涯教育センターばるーん(JR新橋駅徒歩3分)にて開催します。
※新規受講、途中参加大歓迎!
※入会・予約・申込、不要です。岩波文庫テキストのみ各自ご用意ください。

奥の細道行脚。第二回「旅立ち」

2010-06-04 08:39:57 | 日記
【奥の細道】
 弥生も末の七日。あけぼのの空朧々として、月は有明、光も収まろうとする中に富士の峰がかすかに見える。上野、谷中の花のこずえ、またいつ見られようかと心細く思われる。親しいもののみ、宵より集い、舟に乗り込み送ってくれた。千住という所で舟より上がれば、前途三千里の思い万感となって胸ふさがり、今は幻のようなちまたに離別の涙をそそぐ。


 行春や鳥啼魚の目は泪


鑑賞(今、遥か遠くへと旅立って行く。別れを惜しみ、また行く春を惜しむかのように鳥も泣き、魚すら涙を流しているように思われてならぬ)


 この句を旅の矢立はじめとしたものの、足取りはなかなかに進むものではない。人々が途中に立ち並び、後姿の見える間は、と見送ってくれるからであろうか。



【曾良旅日記】

  巳三月二十日、芭蕉とともに発つ。深川で舟に乗る。巳の下刻、千住にて下舟。
一 二十七日夜、粕壁に泊まる。江戸より九里余り。

一 二十八日、間々田(ままだ)に泊まる。春日部より九里。前夜より雨が降る。
 辰の上刻、雨が上がったので宿を出た。しかしまた降りだした。午の下刻にやむ。この日、栗橋の関所を通る。手形を願い出たが、不要であった。


【奥細道菅菰抄】

弥生も末の七日

三月二十七日のこと。三月は草木が盛んに生長する時なので、「いやおい月」とする。いよいよ生じる、と意味である。略して「やよい」という。

月は有明、光も収まろうと

『源氏物語』箒木の巻の文章より。

富士の峰がかすかに見える

駿河の国、富士郡にあり。孝謙天皇五年六月、一夜にして出現したという。祭神は、木花開耶姫、浅間権現と称する。鳥居の額に、三国第一山、とあるゆえに「不二山」とも書く。むろん名所であり、世人の知るところ。

上野、谷中の花のこずえ

上野は東都の牛寅にあって、山を東叡、寺を寛永という。寛永年間、慈眼大師開基の霊場であり、西都の比叡山を模すという。この地はもと、藤堂家の館地であり、地勢が伊賀の上野の城に似ているため、この名があるという。今、山口に車坂・屏風坂などがあるが、みな伊賀上野の坂の名をもらったという。谷中は上野の西。感応寺という天台宗の大伽藍があり、上野に隣接する。この二つの地域には、特に花木が多く、遊覧の地である。

宵より集い

つどいは、「湊輳」の字を用いる。より集まることである。

千住という所で

奥州往来の最初の宿駅。

前途三千里の思い

この五文字は、古詩文中の一句であることは間違いない。出典は調査中。あるいは、『古文前集』に、「此を去って三千里」という意味か。前は「すすむ」と訓じる。途は「みち」で、前途は「行く先」ということである。

幻のようなちまたに

『詩経』にも、「夢幻泡影の如く、露の如く、また電の如く」と説き、俗に夢の世というように、人生のはかなさを喩える。

 行春や鳥啼魚の目は泪

 杜甫の春望の詩に、「時を感じては花も涙をそそぎ、別れを恨みては鳥も心を驚かす」。『文選』の古詩に、「王鮪河岬をおもい、晨風(鷹のこと)北林を思う」。『古楽府』に、「枯魚河を過ぎて泣く、いずれの時か還りてまた入らん」。これらを趣向とした句であろう。


『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社2008
http://bit.ly/cnNRhW

奥の細道行脚。第一回「序章」

2010-06-02 19:32:09 | 日記
今回スタートする「奥の細道行脚」は、三百年前芭蕉が、奥の細道の旅でたどったコースを、ほぼ同じ日程でヴァーチャルに行脚していこうとするものです。

具体的には、現在のリアルな日付とほぼ同じ日程にて、奥の細道本文を、『奥の細道全現代語訳』(能文社2008)
http://bit.ly/cnNRhW
より、該当段落をご紹介。ともに読み進めてきます。誌上の旅であっても、よりリアルにより深く、おくのほそ道を体感していただくために、同著所収の『曾良旅日記』と『奥細道菅菰抄』も、該当段落を併載します。

芭蕉と弟子の曾良は、元禄二年旧暦三月二十七日(新暦五月十六日)深川芭蕉庵より旅立ちます。奥羽、北陸を巡遊する、所用全日数百五十五日、総行程六百里の大旅行でした。旧暦九月六日(新暦十月十八日)、終着地の大垣を経て、伊勢長島から伊勢神宮をめざし再出発する場面で、この紀行文は閉じられます。

江戸出発は五月十六日。ちょうど今頃ですね。今回は、日本文芸史上極めつけの名文といわれる、おくのほそ道の序、「月日は百代の過客にして…」を読み、江戸深川より出発。最終回には「大垣」へと、約半年かけて到着する予定です。

●序章

【奥の細道】
 月日は百代の過客であり、行き交う年もまた旅人である。舟の上に生涯を浮かべるもの、馬のくつわを取って老いを迎えるものは、日々これ旅にあり、旅を住みかとしているのだ。古人も多く旅に死んだという。私もいつ頃よりであろう、ちぎれ雲のように風にさそわれては、漂泊の思いやまず、海辺をさすらったものである。去年の秋、江上の破れ小屋に蜘蛛の古巣を払い、ようよう年も暮れる。春立つ霞の空に、白川の関を越えてみたいもの、とそぞろ神にとりつかれ心乱され、道祖神にも招かれては取るものも手につかぬありさま。股引きの破れをつくろい、笠の緒すげかえ、三里に灸をすえなどしているが、松島の月、いかがであろうかとまず心にかかる。それゆえ住まいは人に譲り、杉風の別宅に引っ越すにあたって、

 草の戸も住替わる代ぞひなの家

鑑賞(古びたこの草庵も、住む人が変われば、代替わりするもの。愛らしい雛など飾る若やいだ家にもなるのであろうか)

 これを発句に、表八句を庵の柱へと掛け置いた。


【奥細道菅菰抄】
月日は百代の過客であり、行き交う年もまた旅人である

『古文真宝後集』、春夜桃李園に宴する、の序に、「それ天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客」と、天地の運旋、日月の軌跡を旅にたとえている。逆旅は、旅籠屋、光陰は太陽の移り行くこと。過客は旅人という意味である。

舟の上に生涯を浮かべる

生涯は、俗に、一生というようなもの。『荘子』に、「わが生や涯り有りなり」とある。

古人も多く旅に死んだという

ここまでが序文の発端の詞にあたる。

私もいつ頃よりであろう

ここから本序となる。

ちぎれ雲のように風にさそわれては

『詩経』の、「一片の孤雲、吹を逐って飛ぶ」という風情である。

漂泊の思いやまず

漂泊の二文字はすべてただよう、と訓じる。さまよい歩くこと。

海辺をさすらったものである

吟行と書くべし。これも「さまよう」の意であり、文選の『漁父の辞』に見える。左遷という意味ではない。

江上の破れ小屋に

江上は、江都などというのと同じ。江戸をさす。
(訳者注 漢文、日本の古文ともに江上は、水面または、川のほとりという意味である。深川芭蕉庵のことであろう)

春立つ霞の空

『拾遺集』、「春立つといふばかりにやみよし野の山もかすみてけさは見ゆらん」、忠岑。

白川の関を越えて

古歌の立ち入れである。以下の「白河」の項目にくわしい。

そぞろ神にとりつかれ心乱され、道祖神にも招かれては

「坐」の字をそぞろと訓じてきた。が、ここでは「倉卒」の字を用いるべきだ。心のあわただしい様で、神は比喩である。祖は門出の祭名といい、旅立ちの祭りである。黄帝の妹、累祖という人は、遠出を好み、ついに途上にて亡くなった。これにちなんで岐路の神として祀る。日本においては、猿田彦命を分かれ道の神とする。神代に天津彦火瓊瓊杵尊、下界に降臨の時、迎え導いた神で、『日本書紀』にくわしい。後世、仏教徒が青面金剛を伝来し、これを庚申と称した。道路に庚申の像を置き、巷の神とするのはこれゆえである。

松島の月、いかがであろうかとまず心にかかる

松島は奥州の名所であり、以下にくわしい。『新勅撰』、「心あるあまのもしほ火焼すてて月にぞあかす松が浦島」、祝部成茂。『新後撰』、「まつしまや雄島の磯による波の月の氷に千鳥鳴也」、俊成。

杉風の別宅に

 杉風(さんぷう)は、翁の門人、東都小田原に住む。本名、鯉屋藤左衛門といい、魚店を営む。


○ここまでが序文である。

 草の戸も住替わる代ぞひなの家

頃は二月末、上巳の節に近いため、雛を売る商人が、翁の空いた庵を借り、売り物を入れて倉庫としたゆえ、この句があるという。もちろん雛の家箱には、あるものは二つの人形を一緒に入れ、またあるものは大小に箱を入れ替え、と毎年収蔵時に定めのないものなので、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」の心にて人生の常ないさまを観想した句といえよう。