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日本刀文化というけれど。

2019-11-25 00:00:00 | ワタリのエッセイ
今回は、このツイートがネタ元です。

蛍丸の復興から始まり、刀剣乱舞の快進撃がまた放たれた訳ですが、そもそも・・・「岩波書店の日本刀って何?」というレベルの話なんですよ。

なんて言うかな?こう言うのが出るとすぐ日本刀文化どうのこうのという人がいるけれど、ワタリ個人としてそういう人とはあいまみれないなって思うんですよ。

そもそも、日本刀って実用品でしょ?

実用品で、武器で、多くの人々から愛され必要とされ、ずーっと生き続けてきた存在。

でも、銃刀法の発生で美術品にならざるを得なかった。

時代の変化に対応するように、鍛冶屋たちは包丁に活路を見出し、本当に素晴らしい切れ味の包丁を生み出しているんです。

ワタリはね、日本刀とは実用品であり、日本刀の銘をもつ包丁は刀剣男士となってこの世に現れた付喪神たちの末代だと思っているの。

だから、ワタリは兼定の包丁がすごく欲しい。

初めて恋した付喪神である私のナイト、歌仙兼定の末代であるこの兼定の包丁がすごく欲しいんですよ。

人を殺すために生まれた日本刀の末代で人を生かす。と言うの自体、きっと歌仙にとっては変な感じなんでしょうね。

でも、そうやって確実に兼定の名前は生き続けていて、今に繋がる道を立ててきたんです。

それに、確かに真剣は美しいけれど、そこに魅力を見出せるのはちゃんと育った付喪神がいるからなんです。

所詮ね、付喪神のいない、あるいは生まれたばかりのエネルギー体では意味がないの。

愛され大事にされ、しっかり使われて育てられたからこそ愛おしい我がナイトになり得るんです。

そう言う点で、日本刀を本当に愛するのなら日本刀の銘の入っている包丁を買い、それで人を生かす事をするべきなんだと思います。

こう考えているワタリはきっと、日本刀文化どうのこうのと言う人たちとはあいまみれない。

だって、そもそも真剣なんて厄介なだけだし、仮に相続したとしてもワタリにとっては負担となる事でしょう。

こんな考えのワタリは、日本刀美術品派の人たちとは全く別次元なんです。

それに、文化どうのこうのいう前に、それを生かすだけの方法はあるのかと言いたい。

所詮ひけらかして自慢しているだけじゃ、ブランドバック持ってぶいぶい言わせている成金と同じなんですよ。

アートは売れないと意味がない。

日本刀は使われなければ意味がない。

だから、ワタリと日本刀愛好家はきっとあいまみれない。

だって、永青文庫にいる歌仙兼定とその末代に私はキスをしたくなるけれど、新規の真剣にはなんの色気も感じないから。



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